コモンセンス目次
岩波新書686 ISBN 4-00-430686-8 2000年8月刊

尾木直樹

子どもの危機をどう見るか

抜書 2001.2.3

しおり


■学級崩壊を定義する p15
■いじめについて p45
■学校による柳圧 p97 
■不登校13万人が問いがけるもの p99
■教師の「質」が低下? p103
■評価したがる教師たち p109
■共感と支接を求める子どもたち p113
■指導観をどう変えるのか p118
■文部省の教育改革の4大柱 p177
■親制緩和と自己責任路線 p179
■公教育は崩壊する? p181
■子どもの自己決定を妨げている社会 p236
■自己決定能力を育む課題へ

■学級崩壊を定義する p15

そもそも、学級崩壊とは一体何なのでしょうか。

「学級がうまく機能しない状況」(文部省、前出報告)ですとか、「学級のも つ日常機能(生活・学習機能)の不全・解体状態」(松浦善満教授)として捉 える見方もあります。確かにこれらも学級崩壊の本質からずれているわけでは ありません。定義には一般化・抽象化が避けられません。けれども、現象から 乖離しすぎて抽象化が進みすぎた定義は、学校臨床の分野では解決の力になり ません。

定義を導き出す前の現象把握の段階では、文部省もつぎのように的確な特徴の 描出に成功しています。つまり、学級崩壊は、「子どもたちが教室内で勝手な 行動をして教師の指導に従わず、授業が成立しないなど、集団教育という学校 の機能が成立しない学級の状態が一定期間継続し、学級担任による通常の手法 では問題解決ができない状態に立ち至っている場合」を指すとしているのです。

これは、国立教育研究所を中心とする18名の「学級経営研究会」のメンバー が半年以上にわたって学級崩壊の事例を全国の150の小学校に精力的に聞き 取り調査をし、分析した結果から導き出されたものです。それだけに、現象の 特性をリアルに把握しているといってよいでしょう。私の認識とも重なるもの です。

しかし、この的確な現象把握を描象化し、先に見た定義のように「機能不全」 としての側面を前面に押し出してしまいますと、中学・高校、果ては大学での 状況も学級崩壊と呼べることになります。とりわけ、高校では学級崩壊が頻発 している学校さえ出てくることになってしまいます。しかし、中・高では、教 師側から見ると後で述べるように小学校が苦悩しているような意味での学級崩 壊は発生しにくいのです。

では、臨床現場に役立つ有効な定義とは何でしょうか。

私は学級崩壊を次のように定義しています。

学級崩壊とは、「小学校において、授業中立ち歩きや私語、自己中心的な行動 をとる児童によって、一定期間学級全体の授業が成立しない現象」である。

この私の定義のポイントは次の三点です。 ?小学校現象に限定したこと ?「授業不成立」現象として把握したこと ?特定の子どもの荒れを間題にするのではなく、学級全体の状況を問題にし、 一定期間教師の指導力が通用せず、集団性が崩壊する現象としてとらえたこと、 です。

■ p45

「弱い者をいじめることは、人間として絶対許されない」などと文部省がいう ような、精神主義的な圧力を加える「心の教育」によって、いじめを撲滅する ことはほとんど不可能です。そもそもいじめたるものが、何が原因で発生して いるのかを見てみますと、それは道徳心や規範意識等の問題ではなくて、スト レスであることが多くの調査研究結果からはっきり証明されているからです。 むしろ「心の教育」が新しいストレス源となることさえ考えられるでしょう。 ストレスが「よくある」「時々ある」と答えた子どもたちの中では、小学生の 10・9%、中学生の9・8%が「だれかをいじめたい」と答えています(秦 政春・大阪大学教授「子供のストレスと非行・問題行動」1992年、福岡県 内の小学校14校、中学校8校、小五・六年生7182人、中1〜3年生76 3人を対象に実施。)

■学校による柳圧 p97 

教室が子どもにとっていかにストレスの温床となっているのかについて、身近 な典型例を一つ見てみます。

「頑張って清く正しく黙々と、日々努力」「集中して授業に取り組もう」「言 われる前に行動に移そう」「誠心誠意」「明るく自標に向かってベストを尽く す」「自ら考えて行動し、責任と気付きのあるクラス」

これらは、私が訪問したある中学校の一年生から三年生の各教室に掲げられて いた「学級目標」です。たとえ生徒自身が決めたにせよ、このように精神主義 的な服従を生徒に強い、日常的に圧力を加えているのが、今日の学校の姿です。

しかも、授業を受ける中学生たちは、教室内にもかかわらず全員が体育のジャー ジ姿。胸と背には大きくプリントされた氏名入りのゼッケン。机の横のフック には体育の赤白帽がかけられ、毎日の清掃時には「着帽」させられるのです。 その教室で行われている授業は何と中三の「人権教育」でした。授業参観日の ため父母も十数人見学している中でさえ、このような時代錯誤の光景がさり気 なく「徴笑みながら」繰り広げられているのです。

外界の価値観が大きく変化している時代だけに、ここから生じる生徒たちへの 内圧が異常に高まったとしても不思議ではありません。暴力行為やパニックを 子どもたちが引き起こしたり不登校に陥るのも理解できるのではないでしょう か。

今日は、ただ一途に高度注済成長期をひた走っていた時期とは決定的に違うの です。産業社会への「人材育成」装置としての学校の役割は終わったと考えた 方がよいのではないでしょうか。工場で労働者がベルトコンベアーの前に5分 前に集合し、自分を押し殺して一致「団結」し、整然と作業に従事できる人材 す養成するために、学校があるのではないのです。

■不登校13万人が問いがけるもの p99

ストレス発生装置としての学校を避けて子どもたちが不登校に陥るのは、ある 意味では、きわめて健全な反応といってよいでしょう。いまの不登校の子ども は、小・中あわせて12万7692人にのぼっています(文部省「生徒指導上 の諸間題の現状と文部省の施策について」1999年12月)。...

■教師の「質」が低下? p103

旧態依然のままの日本の学校。この装置を日常的に機能させて奮闘しているのが教師です。 教師はこれまでに多大な力量を著積し、学校の運営にも膨大な力を注ぎ込んでいるにもかかわ らず、今日ではなぜ1章のような探刻な問題をかかえているのでしょうか。教師たちは自力で 学校を甦らせることはできないのでしょうか。

人々は学校で問題が発生するたびに、教師の「質の低下」を口にします。しかし、本当にそ れほど「質の低下」が進んでいるのでしょうか。またかりにそれが事実だとすれば、一体どう してなのでしょうか。その原因を明らかにしないまま、むやみに教節に研修を押しつけても、 何の効果も期待できません。むしろ教師から自信を奪い、疲れさせるだけでしょう。

この節では、教師がかかえる「質」の問題を、それがどのような社会的変化の 中で起きているのか、そして、教節の役割がいじめや不登校が起きる状況とど う関係しているのかということについて、二つの視点から考えます。

一つめの視点は、児童・生徒に対する「評価」の問題です。教育実践における 評価は、教育理念や目標が実現できているのかを教師と児童・生徒が点検する ためには必要不可欠です。たとえば、「明るく元気な子」などという児童像を 学校目標に掲げたとすれば、それが実現できているのかどうかをチェックする ために「挨拶の声の大きさ」「笑顔」「欠席率」など、一定の尺度からなる評 価をすることになります。しかし、現代の社会的変化の波は、教育の根幹にあ る教育評価のあり方に対して根本的な見直しを迫っています。

ニつめは、学習と生活などの「指導」の問題です。指導について真っ先に問題 にされてきたのは、児童・生徒に対する管理主義が子どもの個性や意欲を伸ば さないとか、形ばかりの指導に教師が目を奪われ、子どもの心が見えなくなっ ているのではないか、という批判でした。民主的にせよ抑圧的にせよ、管理と いう側面を抜きに学校生活に諸秩序を確立することは困難だという声も多いの は事実でしょう。しかし、今日の管理主義は、かつての強面(こわおもて)の 管理方法とは様相を異にして、比喩的に言えば、優しくはほえみながら進行し 強化されているという気がしてなりません。その典型が、I章の4節でみた、体 罰はふるわないが、児童・生徒の心を傷つける「心罰」の増加です。子どもの 人権や尊厳を傷つける言動はとるべきではないですし、それが反教育的行為で あることは言うまてもありません。子どもの心を傷つけ、将来に大きなトラウ マを残しかねません。ところが、現在でもなお、「指導」の名の下に「体罰」 も「心罰」も増加傾向を示している事実があります。これらは、いつの時代で も否定されるべきことですが、さらには、これまでの「指導」の考え方やその 実践方法が、時代の変化に合わなくなってきたという、より根本的な問題をは らんでいます。

教師の教育実践に欠かせないはずの「指導」と「評価」が子どもたちに大きな ストレスを与え、今日の子どもの危機を生み出す要因になっているとすれば、 学校とは何か、教育とは何かという根本を問われていることを意味しているで しょう。学校観・教育観そのものを21世紀にふさわしい中身に転換する必要 があるのです。

■評価したがる教師たち p109

中学三年の女子生徒が書いた次の手紙は、現在の学校の評価がいかに「よい子 競争」を強い、大人好みの人間を形の上で求めているのかということをよく示 しています。

「先生が自分のことをどう見てるとか、今日は手を五回あげたぞ、とか、そう じばっちり、とか、そういう型にはまるのは、結構いごこちいいんですよ、私 はね。その型にはまることで、先生によく見られるし、まあ、それなりのクラ スの中での地位みたいなものが得られるような感じで、安心できるんです。一 日が終わって、「やることはやった」みたいな満足感もあるし−−」

この中学生が感している心地よさには、二つの側面があります。その一つは、 学習から生活まで、教師に身ぐるみ評価されることに対する心地よさです。も う一つは、そのことによってクラスにおける自分の位置や存在感を実感、確認 できるという喜びです。つまり、教師だけでなく、クラスの仲間から自分はど う見られているのかによって、自分のポジションを確認するという一種の依存 関係に陥っているといってよいでしょう。自分の素直な要求や実感にもとづく 行為を自己抑制し、自分らしさを少しも育むことができずに自己を空洞化させ ているのです。アイデンティティの透明化といってもよいでしょう。これほど 個性化・多様化が叫ばれる今日の学校教育が、一皮めくれば、実態は本人自身 に自己決定させたかのように錯覚させて一定の型にはめる教育でしかないので す。以前のような一斉主義的な人間づくり以上に巧妙です。

それにしても、大人や社会に反発しながら自己を形成するという思春期の特性 を正面から否定するような評価、教師は意識していなくても、教師による生徒 コントロールと言ってもよいような評価法が、なぜこんなに大手を振ってまか り通っているのでしょうか。

この経緯ははっきりしています。1992年までは、学力偏差値一辺倒による 高校への選抜制度が、とかく批判を浴びながらも続いていました。全国の多く の中学校では、受験業者が学校の授業時間中にくい込んで偏差値試験を実施し ていたのです。評価ということからすれば、この偏差値試験は生徒の人柄や授 業中の態度や意欲、あるいはクラブ活動や委員会活動への参加状況とか、日曜 日のボランティア活動等とは一切無関係でした。要は、ペーパー上で高得点さ え獲得できれば高い評価を得ることができたのです。その意味では、極めて単 純明快で私情や演技などの入る余地はまったくありませんでした。しかし、単 純明快なだけに、やがて偏差値の数字だけが一人歩きを始めたのです。社会的 な批判も大きくなり、文部省は93年からその放逐を始め、2年間で業者テス トや偏差値は中学校からほぼ完全になくなりました。その後は、「偏差値より も人柄を」などといわれ、学習だけでなく、日常の出欠遅刻の状況など、生活 ぶりや授業中の挙手回数まで「正」の字で記録し、態度や人柄までも相対評価 するような現在の内申システムへと転換したのです。

先ほど紹介した中学生の文章は、あるテレビ番組で私が内申システムについて 「子どもに人柄競争まで強いるので良くない、すぐに止めるべきだ」と発言し たことへの反論として、番組直後にFAXで送ってきたものです。いかにも真面 自そうなその文字を目で追いながら私は絶句しました。絶対的な評価権を掌握 している教師の視線の中でしか、自己実現できなくなっている少女を発見した からです。

中学校における子どもの教師への向き合い方はいまや、ここまで屈折した状況 になっているのです。これでは、教育を成立させる基盤や前提がないに等しい でしょう。これらの評価のまなざしそのものが、子どもの発達権への侵害であ り抑圧といってもよいと私は考えています。

なぜなら、子どもは本来、失敗や問題行動、友達とのトラブルをくり返し、そ のつど親や教師の叱責や深い愛情、支援を受けながら、ものごとの本質を体験 的に理解し、感性豊かな人間に成長するからです。その意味では、失敗も問題 行動も子どもにとっては成長への大切な素材であるといってよいでしょう。そ れを学校という安全なワクの中でくぐり抜けることは、子どもにとっては豊か な人格に成長するための当然の権利でもあるはずです。

ところが、今日の評価制度ではこの「くぐり抜け」のブロセスが許されないの です。自分の感情のままに表現することを我慢せざるを得ないばかりか、学校 や教師が求める「よい子」を演じることさえ求められます。

とくに中学校において最近はキレる子が多くなっています。例えば、先のNHK 「少年少女プロジェクト」の調査では、「キレ」た経験のある中1高生は五六 %にも達しています。この「よい子競争」を学力だけでなく、全生活から人柄 にまで要求する内申による評価システムは、子どもたちの心とアイデンティティ を育てることができず、演技の上手な子には「透明な存在感」を肥大化させる ばかりです。反対に、演技下手な子たちにはイライラ感を募らせ、今日の「新 しい荒れ」現象の士壌にさえなっています。また、陰湿ないじめを生む要因と もなっているのです。そればかりか、ネガティブな側面を教師に見せないで中 学校生活を過ごさせることば、思春期の発達の大きなテーマである、これまで の大人好みの「よい子」という「自分くずし」を経ながら、本物の自分づくり を模索するというデリケートな発達の道筋を壊すに等しいことなのです。そう 考えた時、教師と子どもだけでなく、子どもたち同士もお互いに心を許し合え、 信頼感に満ちた教室空間を築けるようにすることは、私たちの緊急の課題とい えます。

■共感と支接を求める子どもたち p113

バブル経済の崩壊と同時に、かつての安定した社会構造が大きく揺らいでいま す。それを見つめる子どもたちは「頼れるのは会社や地位よりも自分自身であ る」との認識を持ち始めました。ですから、最も身近な社会人である教節とと もに現代社会を考え、生きる意味をさぐりたいという中・高生の思いや期待に はこれまで以上に強いものがあります。社会の「揺らぎ」の正体を分析し、い かに新しい人生観や価値観を持てばいいのか、その問いの答えを見つけだす道 程の伴走者、パートナーとしての役割を子どもたちは教師に求めているのです。 先のアンケートで子どもが教師に求めた「気楽さ」も「親しみやすさ」もこう したところで発揮してほしいと願っているのではないでしょうか。

だからこそ、子どもたちは、教飾に対して高みから見下ろすように評価するの ではなくて、「共感」と「支援」をこそ求めているのです。この子どもの最近 の要求に見られる、徴妙ではありますが本質的な変化に、学校も教師もあまり 気づいていないようです。学校システムや教育条件の整備以上に、一面的で硬 直したこれらの内申システムに見られる評価観を転換しない限り、教師と子ど もとの間に生している大きな溝を埋めることはできないでしょう。

これまでの評価観は、「よい学校」「よい会社」へとただひたすら立身出世で きるように、高い偏差値の「学力」を身につけることを目的としていました。 けれども、企業社会の揺らぎの中で根本的な変化を迫られています。未来に向 かって生きる子どもたちにとっては、もはや旧来の偏差値や評価は何の魅力も 持っていませんし、学習の動機づけにもなりません。

一方的に生徒に言うことを聞かせたり、指示を上から浸透させる教師の力は、 かつてのようには作用しなくなっているのです。だからといって、偏差値評価 に変わるものさしとして、内申書のような全生活から人柄にまで及ぶ相対評価 を導入しても、問題をこしらせるばかりです。評価の対象を点数から人柄・態 度へ変えたとしても、これまでのように教師が生徒の上位に立って彼らを見下 し、友達同士を競わせ、成績ごとに分類・選別していくような評価思想自体が 変わっていないからです。いじめや暴力、不登校の要因にさえなっている点に 注目すべきです。果ては、キレる子や凶悪な事件を生む背景にもなっているこ とを直視すべきでしょう。

評価の思想も方法も、「子どもの権利条約」時代にふさわしく、子どもたちの 人権の尊重と自己決定権の行使ができるよう努力したいものです。教師は、そ うしたこれまでの評価システム自体が子どもたちを抑圧していることに気づか なくてはなりません。

■指導観をどう変えるのか p118

これまでのように一元的な競争を強いる方向から、個性や多様性を尊重する方 向へと、いま、人々が求める価値や生き方は大きく変化しています。ですから、 一人ひとりの多様性や個性を豊かに発達させるようにいかに支援できるのかが、 これからの教師の指導力の根幹になくてはなりません。

伝統的な学校的文化を押しつけ、整然と管理された環境の中で少しでも多くの 知識を教え技量を習得させるような指導法は無効です。現代が求める指導のあ り方ではなくなっています。むしろ、教飾がそうした指導をすればするほど、 先の例のように子どもをいじめたり虐待してしまうことにつながりかねません。

今日の子どもたちのストレスや不登校の背景には、このような教師たちの指導 観と子どもたちが求めるものとの基本認識上の大きなズレが横たわっています。 今や教飾たちは、自分の指導法を一度相対化する必要があるのです。

まず第一にすべきことは、中学校で現在多くなされているような、生徒をがん じがらめにしている実践を即刻廃止することです。授業中の挙手の回数をカウ ントすること、つぶやきや忘れ物チェック、出欠席状態からあいさつの様子、 部活動への参加、委員会活動から休日におけるボランティア活動まで申告させ 点数化し評価すること、そして、それらを入試に影響させるという内申書重視 路線は、すぐに改めなくてはなりません。

生徒との信頼を築けぬ評価システムを貫くのは教師の自殺行為に他なりません し、何度もくりかえすように、I章で見つめてきた諸問題を解決するどころか、 その原因の一つにさえなっているからです。指導概念を、「支援」「共感」と いうイメージに転換すること、つまり、子ども自身が課題を発見し、自分で達 成目標を自己決定し、自分の力で、あるいは学級のクラスメイトと共同して学 び生活することを、共感的に、つまずきにも寄り添いながら教飾は「支援」し ていくことです。換言すれば、生徒参加の、生徒が主人公となった評価思想を 確立することであり、その支援が指導なのだということです。

■文部省の教育改革の4大柱 p177

...日本でも、さっそく大学審議会(文相の諮問機関)がインターネットで 取得した海外大学の単位や学位を海外留学同様に認知する方向性を打ち出しま した2000年6月)。また首相によって私的諮問機関「教育改革国民会議」 が立ち上げられ(2000年3月)「二一世紀の日本を担う創造性の高い人材 の育成を目指し、教育の基本に潮って幅広く今後の教育の在り方について」 (会議趣旨)話し合われています。2000年4月からは小・中学校では20 02年度開始の新学習指導要領への移行措置として「総合的な学習の時間」の 開設がすでに模索されています。また、学校評議員制度の発足、民間人校長の 登用や公立小・中学校の選択の自由化など、政府はこれまでの改革の範囲を大 きく超えた変化を生み出そうとしているようです。

これら政府の改革の背景には、第一には、目前の子どもたちの危機的な状況を どう打開するのかという国民の切実な要求と、第二には、国際化・情報化が急 進展する社会にあって、それに見合った人材を国家としていかにして育成する のかという二つの大きな課題があります。

これらの教育改革とはどういったものでしょうか。政府の改革は、次の4つを 柱にしています(文部省「我が国の文教施策‐‐進む「教育改革」」平成11 年度版より)。

(1)心の教育の充実−−これまでの詰め込み型の画一的な教育から脱却し、 道徳教育やカウンセリングを充実させ、教育内容の見直しを行い、子どもの 「ゆとりある学校生活の実現」をはかる。これによって自ら学び自ら考える人 材を育て、「生きる力」を形成しようとする。

(2)多様な選択ができる学校制度−−公立の中・高一貫校の開設や小・中学 校の学区域の弾力化をはかる。

(3)自主性尊重の学校作り−−これまで開鎖的で画一的といわれてきた学校 の体質を改善するために、民間人の校長を登用したり、校長の権限を強化した り、学校評議員制度を設けるなど、地域や保護者の意見が反映しやすい「開か れた学校づくり」の推進にカを注ぐ。

(4)大学改革−−学生の学力低下や卒業が容易にできるシステム、研究の遅 れなど、日本の大学がかかえる教育と研究の問題にメスを入れる。学生に対し て一年間の履修登録の上限を設定し、じっくり学習させ教育の空洞化を防いだ り、大学の教育と研究の質を高めるための「第三者評価機関」を設置。入試制 度(AO人試等)の改善等を進める。経営母体も「独立行政法人」化するもの とする。

■親制緩和と自己責任路線 p179

これら四つの「改革」全体を貫いているのは、新自由主義路線に基づく「規制 緩和」と「自己責任」の思想と言えます。

政府のこれまでの中央集権的で上意下達の教育行政は、学校現場や地方行政、 地域住民の教育参加への主体的な力量を削ぎ落とし続けてきました。たとえば、 政府・文部省が東京・中野区の住民参加による教育委員の民主的な準公選制を 認めなかったり、現場へ任命教頭制や主任制を導入したのは、その典型例でしょ う。これまでの教育行政は、地域住民や現場教師が自分たちの創意と工夫で主 体的に教育を作り上げていこうという動ぎを封じ込めてきたのでした。

けれども、政府は、そうした従来の一方的な姿勢から一転して今度は、「小さ な政府」を目指す行政改革の延長線上に教育の領域も位置付け、「規制緩和」 や「自己貴任」路線を掲げ始めたのです。これが、小・中学校の学区域の自由 化であったり、校長権限の強化策や民間人校長の登用施策として現れているの です。

これらは、一見自由で可能性に満ちた方策のように錯覚さ せられますが、この政府の路線は、第一には住民や学校の現場、子どもの声を 聞かないで常に「上からの一方的改革」としてなされ、第二にはそれぞれが孤 立し競争原理の中で自己責任を負う状況になる危険が大きい。つまり、最大の 問題は、教師や児童・生徒、地域住民の共同した学校づくりや参加を尊重する という民主主義の観点の欠如にあります。

たとえば学校教育法施行規則等の一部を改正し、「職員会議を置くことができ る」(第23条の2)とか「職員会議は、校長が主宰する」(同2)としまし た。これまでは教職員が英知を出し合う最高の実践的な企画・討議・決定・研 修の場でもあった職員会議を「校長自らが職員会議を管理し運営する」と補助 機関化していることに端的に示されています。

「学校評議員」についても、「学校評議員は、校長の求めに応じ、学校運営に 関して意見を述べることができる」(学校教育法施行規則第23条の3)とし、 「校長の推薦」によって市町村(県)教育委員会(「設置者」)が「委嘱」す るものとなっています。これは、中・高にも準用されますが、問題は、評議員 は「校長の求めに応じ、(校長が行う)学校運営に関して」意見を述べるとなっ ていることです。これでは文字通り、評議員が校長の下に位置づけられるにす ぎません。しかも評議員の対象には、「児童生徒を委嘱することは想定してい ないこと」(文部事務次官通知)とわざわざことわって制限を加えているので す。

■公教育は崩壊する? p181

これでは、日本も94年に批推した「子どもの権利柔約」に明記されている子 どもの「意見表明権」(第12条)をあからさまに否定するものであり、国際 的レベルでの人権感覚さえ疑われるではありませんか。私は「児童会・生徒会 活動という日本的教育実践方法を尊重しているので考えなくてもよい」とする 文部省の見解を直接耳にしたことがありますが、これは見当違いもはなはだし いものです。子どもの声など一切聞かないで教師が一方的に決めたカリキュラ ムの範囲内でのみ子どもの自主性を伸長する実践と、子どもの基本的人権とし ての意見表明権を同列に置いて論じることは不見識と批判せざるを得ません。

そればかりか、市民不在の学校選択の自由化など、親は選び手にまつり上げら れるだけで、学校づくりには一切参画しないために、学校の失敗に対しては親 の自己貴任は問われません。これでは、親は楽ですが、学校側の実践力の優劣 によって学校間格差が一気に広がりかねません。結局、教育の機会均等、平等 の原則は父母や地域による下支えの力がないために一気に崩れる危倹がありま す。児童・生徒が集まらなくて閉鎖に追い込まれる学校が出るなどして、地域 コミュニティの子育てと教育における文化的拠点としての学校は姿を消し、こ の「教育改革」によって、公教育が大きく揺らぐことが心配です。

教育改革にとって欠落させてはならない視点は、父母や子ども、それに現場の 教師が主役となって学校づくりに参加し改革することなのです。

とはいえ、現在政府の進めている改革の中でも「総合的な学習の時間」や「学 校評議員制度」などは、校長が民主的な感性を発揮したり、教職員と父母、子 どもを尊重し、地域の力と歯車をうまくかみ合わせることができれば、子ども たちの心安らぐ居場所としての学校へと転換できる可能性がないわけではあり ません。これは、これまでの文部省の教育改革には見られなかった現場主導で 実践できる大きなチャンスと考えることもできるのです。その機会を生かすた めにも、学校民主主義を大切にしながら、住民参加と、子どもの自己決定権の 尊重を前提としながら、自己責任思想を育てる其体的な改革案を提示したいと 思います。

■子どもの自己決定を妨げている社会 p236

問題は、こうして子供たちが感性としての市民性を高めているにもかかわらず、 今日の社会が子どもの自立や自己決定を妨げるような仕組みになっていること です。そのギャップが、子どもにストレスを生じさせ、現在の危機の要因にも なっているのです。

たとえば、選挙権がそうです。2000年現在の国立国会図書館調査局の資料 によると、168力国の87%にあたる146力国では18歳で選挙権を獲得 できます。私の研究所に取材にきたブラジル人記者は、目本では20歳が成人 と聞いて大変驚いた様子でした。ブラジルでは16歳で成人になるからです。

20歳までは一人前の自立した人間として認めないというところに、日本の子 育てと教育が受験教育に押し流されたり、人権無視の丸刈りの強要や、服装か ら身だしなみ、私生活に至るまでの行動規制、警察でさえやらない違法な検査 や罰則規定の横行(太田周二郎著『高校生のゆううつ』法律文化社、1995 年参照)を許してきた元凶があるのです。高3の18歳で成人として認知する ことになれば、日本の高校におけるカリキュラムは、教科、生活指導を問わず その構えそのものをすっかり変えざるを得なくなるはずです。高3で成人とい うことは、市民的諸権利とともに大人としての貴任も発生するということです。 ですから、高3で生徒を一人の主権者としていかに自立させるのかという観点 で、すべての教育活動を組み立てていかなければならないことになります。今 日のような「子ども扱い」した校則などは無意床となり、自主的モラルや規律 を確立できる教育を急がざるを得なくたウます。つまり、自己決定権を認め、 自己貴任能力をたくましくしなければならないのです。現在の青年期教育はこ のような自己決定能カの育成という視点を欠落させているところに、高校生の 発達の未熱さの原因があるのです。

その証拠の一つに、成人式を迎えた20歳の男女への調査によれば、自分が大 人だと思っている者は、男性で34%、女性は22%しかいません(結婚情報 サービス会社オーエムエムジーの首都圏と阪神圏での400人調査。朝日新聞、 2000年1月10日付)。その理由として、経済的に自立していないことを 挙げる者が、76%にも達しています。北欧やニュージーランドなど他の社会 では、20歳になっても親からの経済的援助を受けて生活することは、たとえ 学生であっても問題視されます。社会全体が自立を促す姿勢をみせるだけでな く、学生であれば奨学全制度ですとか、銀行がローンを貸し付けたり大学内に 保育室を設けるなど、自立支援のための諸制度がきちんと整備されているから です。

■自己決定能力を育む課題へ

成人になる年齢を引き下げるといっても、その年齢になって突然、自立せよと 突き放すのではなく、子どもの段階から、完全な自立に向けて自己決定能力を 育むことを意識的に追求することが必要となります。これからの子育てと教育 の根幹には、いかにして自己責任がとれる自己決定能力を育成できるのかとい うことを据えなくてはなりません。

大人であっても自己決定を問われることが少ない日本社会では、これは、きわ めて厳しい意識の転換を迫られていることを意味します。しかし、21世紀が 国際化・情報化社会として進むことが避けられない以上、日本社会も自己決定 能力に優れた市民社会に生まれ変わらざるを得ないのではないでしょうか。そ れだけでなく、民主主義の熟成した社会を築くためには、いつまでも集団や組 織に寄りかかるのではなく、完全に個として自立することが不可欠です。

自己決定能力は時代的な要求として緊急に求められています。この章で取り上 げたスクール・デモクラシーや総合的な学習、メディア・リテラシーもまた、 子どもの自己決定能力を育むための試みとして位置付けることができます。

自己決定能力を高めるために必要不可欠なのは、自己決定の場面を幼児期から 少しでも多く保障することです。これは「子どもの権利条約」の基本理念であ るという意味からだけでなく、自尊感情豊かな子どもたちに有て、果敢に困難 に挑戦し、たくましく生きる青少年の育成のためにも不可欠の課題です。

では、どのようにして自己貴任能力を育てて行くのでしょうか。その能力は知 識によって鍛えられるものではありませんので、これまでの教育観のように、 大人が一方的に子どもに何かを教え込むことでは習得できないものです。実際 に、子どもに自分の進路を選択・決定させていくことで、その力がはしめてつ くのです。そのためにも、幼児期からあらゆる場面に子どもを参加・参画させ、 子どもの意見を聞くこと、子どもに選択権を委ねることが求められます。子ど もの参加は自尊感情も高めていくことでしょう。

大人はそこにどう関わっていけばよいのでしょうか。子どもときちんと向き合 い、子どもの声を危機、応答の姿勢をとることがまず大前提です。応答と言っ ても、こうすべきなのだと指示することではありません。決まった答えを子ど もに与えることでもありません。子どもが自己決定するのを側面でしっかりと 支えることです。

子どもと大人がパートナーシップで生きていくためには、一つには、子どもの 自己決定権を尊童するということ、もう一つには、大人社会が子ども期を保障 し、子どもの発達をケアしていくことが必要です。前に述べたように、一方で 保護しつつ、他方子どもの自主性に委ねていくという考えは一見矛盾するよう に見えますし、実際非常に難しいものです。しかし、「参加」の概念を、実践 的にも、イメージの上でも前面に押し出すことによって、子どもの自己決定権 を尊重できますし、今度は、大人が子ども問題にとことん「参加」し子どもの 「最善の利益」を擁護することによってケアが実現でき、両者は統一されてい くのではないでしょうか。

21世紀の社会にとって、大人と子どもがいかにパートナーシッブを築いて歩 めるかが危機の克服だけでなく、私たちの最大の課題のように思います。「子 ども問題のスペシャリストは子ども」なのですから。