To: simen@mbx.mainichi.co.jp Subject: 19日の社説について From: TSUJISHITA Toru毎日新聞 編集部 殿 貴紙の8月19日朝刊社説「ドクホウ的 活力ある大学への遠い道」を拝読しました。国立大学の独立行政法人化問題について比較的正確な報道をされてきた貴紙には、大学改革の道を閉す独立行政法人化を危惧する大学関係者の一人として、しばしば励まされてきました。 しかし、今回は、失望を禁じえませんでした。 まず、20年前の臨教審に端を発し5年前に行政改革の流れの中で具体的な動きとなり、自自連立の際の公務員25%削減の合意が契機となって、3年前に閣議決定されている政策を「降ってわいたような独立法人化」と書かれています。学長から教員まで、多くの国立大学関係者が、立場や賛否は違うとしても、この3年間、独立行政法人化問題と向きあってきたこと、そして、その努力を嘲笑うかのように、文部科学省官僚と国大協幹部と「有識者」の密室的会議で「新しい国立大学法人像」が練りあげられたこと、などをよくご存知でありながら、なぜ、そのようなことを書かれるのか、わかりませんでした。 つぎに、「日本の大学教育の国際競争力は最低レベルに落ちた。」と書かれていますが「大学教育の国際競争力」とは何のことですか? 上智大学学長のカリー氏が以下のように指摘されています: http://www.ac-net.org/doc/01/113-currie.shtml 「・・・かりに「大学の国際競争力」をもつことが,何を意味するかを想像するとすれば,それは日本の大学が研究の業績をあげ、質・量ともに他国の大学に負けない研究者と専門的職業人を輩出し,国際社会で名声を獲得し,他国から多くの留学生を引き寄せることかもしれない。しかし,そもそも大学の存在理由は,人類の共通善として求められる真理の探究ではないのだろうか。そうであれば,はたして自国の大学が国際的に優位に立って地位と評価を獲得することが,大学の建学の理念となりうるであろうか。国際競争において格差がますます開き,競争に負けた諸国の大学が衰退していくことを望んでよいものであろうか。私は,そのような発想法自体が,真にあるべき大学の理念に抵触するのではないかと考えている。・・・」 現代の高等教育2001年1月号p35-38「大学が人類社会に貢献しうるもの」また、政府の関与の増大、評価の困難さ、基礎研究の衰退など、独立行政法人化の深刻な問題点を認識しておられながら「だが、もう引き返せない。」と他人事のように言われる。 それらの問題点は大学にとってだけの問題点だけでなく、日本社会全体にとっての問題点でもあるのではないでしょうか? 資源配分に連動できるような大学評価の適切な方法は、どこにも発見されてはおらず、20年前に評価と資源配分を連動させたイギリスでは、評価される方も評価する方も、評価活動が研究活動の人的・財政的・時間的資源を奪い、研究を阻害してきたため、見直そうという動きすらあると聞きます。「厳正で客観的な第三者評価の手法」があるという考えが幻想であることを実際に証明したものと言えるのではないでしょうか。それが幻想であれば、評価と資源の連動は、単に、官僚と大企業による恣意的資源配分に限りなく近づき、産学官が連携して進めたΣプロジェクトの大失敗を国家規模で繰りかえすことになり、日本の大学全体を衰退させることが危惧されます。 この問題にしろ、基礎研究の衰退問題にせよ、資金面からすれば、企業と政府の下請教育研究会社にほかならない「国立大学法人」に大学を改造すれば不可避なことですが、それによって本当に困るのは大学なのでしょうか. そして、理由もなく断言する「だが、もう引き返えせない」という一言。これは、この社説の中で強力なサブリミナル効果を持ち、かなり露骨な情報操作と言えると思います。それを意図されたとすれば信義に悖ることですし、意図されなかったとすれば不用意との批判は免れないと思います。 個人情報保護法案にマスコミが反対したとき、過剰取材を放置しながら報道の自由を守ろう、ということに世論はさほど理解を示さなかったのではないでしょうか。むしろ、既得権益を守ろうとしている、という批判があったのではないでしょうか。そのとき、ジャーナリストの方々はどう思われたのでしょうか。いや、我々は日本社会のために反対しているのだ、と思われたのではないでしょうか?国会審議が始まる前に「だが、もう引き返えせない」という人が居たとき、どう思われましたか? いかに形骸化していようとも、日本の民主主義は、国会審議というステップを置くことで生きながらえています。国立大学の独立行政法人化は、法案がまだない段階であり、個人情報保護法問題より前のステージにあります。この段階で、「もう引き返えせない」ということは、「有識者」という少数の常連の審議会に国策の決定権を認めることであり、民主主義を守り育むことを使命としたはずの戦後ジャーナリズムの破綻を証明するものにならないでしょうか。露骨に民主主義を損じて省みない某紙とは一線を画している貴紙には相応しくない社説であったと思っています。 >「ほかの大学が利益追求を図るなら、うちはもうからない基礎研究を重視する」 >「文科省からの天下りは絶対お断りだ」と気概を示す大学があってもいい。v 基礎研究の重視は文部科学省も絶えず主張しています。その意味では、前者は、大手大学では利益追及の一環として、さほど難しいことではないと思います。しかし、大学全体では、そういう気概を示す余裕のある大学や部局は次第に減少するでしょうし、独立行政法人化制度の中で予算を次第に自己努力に切りかえられていく中、あるいは、(麻生議員を始めとして政府部内にあるが数年後に目論見まれている)民営化で、どこまで耐えることができるのでしょうか。ニュージランドでは数学研究所が法人化した後、破産してしまったことはよく知られたことです。 (中略) 長期的には、報道や言論の自由の縮小も学問の自由の縮小も、いずれも、社会と精神における多様性と活性を損ない、日本社会を平板化させ民主主義を衰退させ、数十万人が1億人を「従順に飼育して食べる」、ウェルズのタイムマシンの未来社会と何も変らない社会の到来を準備するものだと思います。 >10年後には大学が様変わりし、「ドクホウ的」が文科省とわたり合った国 >立大の奮闘をたたえる言葉になることを願いたいが……。 これはサッカーの試合なのでしょうか。 (中略) 大学の独立行政法人化問題に関し、ジャーナリズム全体がこのような傍観者的立場から一歩も出ようとしてこなかったことは、世論が関心がないことが大きな要因となっているとは思います。反響の大きさという数値で記事が評価される現状では、地味な独立行政法人化問題のために時間を割こうとする記者は稀でしょう。しかし、それでは、ジャーナリズムは気紛れな世論の動向に追随するだけで、世論が気づかない重大な問題を見ぬき社会に警告を発するという、ジャーナリズムの使命の一つを放棄していることになるように思います。 個人情報保護法案に対するマスメディアの反対運動は、世論の関心が乏しくとも、マスメディアが政府に抗して社会を変える力を持っていることを証明したものと思います。 他紙が大衆迎合を図るなら、うちは、政府に睨まれても社会正義を重視する、政府に色目を使うことは絶対お断りだ、と気概を示す新聞社を日本社会は必要としています。 貴紙に期待しております。 辻下 徹
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