国立大学独立行政法人化の諸問題大学の理念

オルテガ「大学の使命」より

井上 正訳 玉川大学出版1996
p65 われわれは大学の第一の使命を次のように輪郭づけてきた.

(1) 大学は、厳密な意味においては平均学生を、教養人ならびによき専門家になるよう教育する制度であると解すべきである。

(2) 大学はそのプログラムにおいて、なんらの詐欺要求をも許容しない。すなわち、大学は学生に対し、実際に要求しうるものだけを要求する。

(3)そうすれば平均学生は、学者になろうとしているのだというふりをすることによって、自分の時間を浪費するのを避けることができる。それゆえ、大学構成のトルソーないし最小限度からは、本来の意味の科学的研究は除外さるべきである。

(4) 教養の諸教科および専門職教育は、教育学的に合理化されて−−総合的・体系的・関連的に提供され、その研究を自分にまかされている科学が、好んで取り上げる形、すなわち特殊的問題、「断片」、研究実験などの形で提供されてはならないであろう。

(5) 教授職の選択は、研究者としての能力の等級によってでなく、むしろ総合的才能と教育者的天賦によって決定される。

(6) このようにして、学生の学習材料が量的にも質的にも最小限度に整理されたならば、大学はその要求するものの遂行のために、学生に対し、仮借なき態度で臨むであろう。

要求におけるこの禁欲的な控え目、実現可能なものの限界認識におけるこの飾り気なき忠実さ、このものによって、大学生活における基礎的なもの、すなわち、大学生活をその真実の状態に、それ本来の分限に、隠しだてなき誠実に立たしめるところの基礎的なものが、達成されうるのだと私は信ずる。すでに述べてきたように、生の更新は、定めを、一個人の、あるいは一制度の定めを、率直に受け入れることから出発しなければならない。われわれがわれわれから、あるいは事物(国家の施設であろうと、私立のそれであろうと)から、それに加えて新たに作り出そうとする一切のものは、それが前もって、われわれの定め、われわれの存在最小限を受諾した土地の上にまかれるとき、そのときにのみ根を張り、実を結んでゆくであろう。ヨーロッパが病んでいるのは、まずもって確実に、一つか、二つか、三つかのもので在ろうとする努力をなんらせずして、ただちに、みな同等の十のもので在りたいと欲張るからしてである。定めは、そこに人間的生およびそのあらゆる抱負が根を張る唯一の土壌である。他のものの上に立つ生はすべて偽造の生である。空中にかかっている生である。そうした生には、生の真正さがなく、土着性(根源性)がない。

いまやわれわれは、なんらの疑念も留保条件もなしに、大学が「それに加えて」それであらねばならぬもの(「それに加える」大学の使命)の考察に向かうことができる。

大学は、なるほどまず第一には上述のごときものではあるが、しかしそれだけのものではありえない。いまやわれわれは、大学体(体といっても、それは本来、精神であるのだが)の生理において、科学や演ずる役割を、その広さと深さにおいて十分認識すべきところへきている。

われわれは最初に、教養(文化)と職業はそれ自身では科学ではないが、主として科学から栄養をとるものであることを認めてきた。科学なしには、ヨーロッパはその使命を果たすことができないのである。すなわち、ヨーロッパ人は、巨大な歴史のパノラマの中で、知性によって生きようと決意している存在なのである。そして科学は、形式でみられた知性にほかならない。数ある民族の中で、ヨーロッパ人だけが大学を所有してきたということは、単なる偶然であろうか。大学は、制度としての知性である、したがっては科学である。知性を制度化するというこの意欲は、他の民族や国や時代とは異なった、ヨーロッパ人独特のものであった。それは、その知性によって、知性から生きてゆこうとするヨーロッパ人の神秘的な決意を物語っている。他の民族は、もっとほかの能力、ほかの内的勢力によって生きるのをよしとしてきた。かつてヘーゲルが、あたかも錬金術師がおびただしい石炭をわずかばかりのダイヤモンドに変えてしまうように、世界史を要約したあの見事な定式づけが想起される−−ペルシア、すなわち光/(魔術的宗教を指して)ギリシア、すなわち優美/インド、すなわち夢/ローマ、そこには権力!

ヨーロッパは英知である。たしかに英知は驚くべき能力である‐‐それは、それみずからの限界を認知し、かつそのようにして、実際にそれがどこまで知的であるかを証示する唯一の能力であるがゆえに一同時に自己を制御する手綱でもあるこの能力は、学問において、その力を存分に発揮する場所をみつけたのである。

もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探究と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。それゆえ大学の中核を取り巻いて諸科学の陣営−−実験室、セミナー、討論センター等がどうしても設立されなければならない。これらが、貪欲にそこから栄養物を吸収する高等教育の沃土をなすのである。だから大学は、どの種の研究所へも通路をもっているべきだし、同時にまた研究所は、大学に対しその影響を及ぼすべきである。すぐれた平均学生はすべて、大学とこれらの諸機関との間を往復するであろう。研究所では、人間的なことに関しても、神的な事柄に関してもすべて、もっぱら科学的見地からそのコースを進めている。教授たちについていえば、いっそう豊かな能力を賦与されている者は、同時に研究者でもあるであろうし、「教師」としてのみいる者は、発酵しつづける科学の経過にたえず接触し、科学に刺戟され見守られて、働いてゆくであろう。だがしかし大学の中心部とそれを取り巻く研究諸機関の地帯とを混同することは許しがたい。大学と研究所とは、別個の機関でありながら、しかも完全体として

の生理において相関関係をなすものなのである。しかし制度的性格をもちうるのは大学のみである。なぜなら科学は、あまりにも崇高な、あまりにも繊細な活動であるから、われわれはそれを制度に仕組むわけにはいかない。つまり科学は、強制されたり、規則で編成されたりするものではないのである。だからして、大学教育と研究とは、強度にではあるが自由な、不断にではあるが自発的な相互影響のもとに、両者相並んで存立させるべきものである。そうさせないで、両者を一つに融合させようとすると、両者は互いに害を被ることになるであろう。

かくして次のように確認される−‐大学は科学とは別個のものであるが、しかし科学から引き離しえない、と。このことを私は、大学はそれに加えて科学である、というふうにいいたい。

もちろんそれは、任意の付加物とか、単なる添えものとか、ただ並べて置くものとか、そういった意味でいっているのではない。けっしてそうではないのだから、われわれはもう混同の恐れなしに公言してよいであろう−‐大学は、それが大学である以前に科学であらねばならない。科学的な情熱と努力でみなぎっている雰囲気こそ、大学存続の根本的前提である。制度としての大学そのものは科学ではない、すなわち、可能なあらゆる仕方で自由に、純粋な知識の創造を遂行するものではない、まさにそれゆえに、大学は科学によって生きなければならない。このことを前提するのでなければ、この試論で述べられた一切は、その意味を失うであろう。科学は大学の尊厳である。否、それ以上に、尊厳はなくとも生きることはできるのだから−−科学は大学の魂である。大学に生命を吹き込み、凡俗なメカニズムに陥るのを防止するところの原理そのものである、これらすべてが、大学はなおそのうえに科学である、という主張の中に含まれているのである。

ところで、「それに加わるもの」には、もっとほかのことも入っている。関節硬化を病まないように、大学は科学との不断の接触が必要であるというだけにとどまるものではない。大学はまた、公共的生、歴史的現実、現在と接触を保つことが必要である。生の現実は、常に不可分の全体であり、そしてこの全体においてのみ取り扱われうるところのもの、つまり、けっして皇大子の御用のために切断が許されたりはしないところのものである。大学はそうした現在の全生活に向かって開かれていなければならない。いやそれどころか、現実生活のただ中にあって、その中に沈潜していなければならない。

私がかくいうのは、歴史的現実の自由な雰囲気に刺激され活気づけられることが、大学のために望ましいからというだけでなく、逆にまた、大学が大学として、公共の生活に関与することが現に必要となっているからである。

この点に関しては、いわれるべきさまざまなことがあろう。しかし私はここでは、今日の公共生活には新聞・雑誌より以上の「精神的権威」がなんら存在していないという事実に関して、簡単に言及するにとどめたいと思う。本来歴史的である公共生活には、欲すると否とにかかわらず、常に指導が必要である。公衆はそれ自身では匿名であり、盲目であって、自律的な操縦力をもつものではない。...しかし、ジャーナリストは、現実的なものから瞬間的なもののみを、瞬間的なものからセンセーショナルなもののみを取り上げるからして、...事件や人物がより本質的な、より持続的な重要性をもつものであればあるほど、新聞はかえってそれをより小さく取り扱う。逆に、その正体が単なる「出来事」にすぎないもの、ごく簡単な記事で事足りるような事柄が、紙面に大きく持ちだされてくる。

この笑うべき状態を矯正することは、ヨーロッパの生死にかかわる問題である。まさにそれゆえに、大学は大学として、現実生活に関与しなければならないのである。現下の大きな諸問題を、大学独自の見地から、すなわち教養(文化)、専門教育および科学の見地から論究すべきである。..大学は、生活のただ中へ、生の緊急と情熱のただ中へ入り込んで、熱狂に対しては冷静を、軽薄と不遜な愚劣に対しては精神の真剣な鋭さをもって臨み、新聞・雑誌を凌駕する、より大きな「精神的権威」としてみずからを貫徹しなければならない。」