2000.12.25
著者の承諾を得て転載(Academia e-Network

ニュ−ジ−ランドの行政改革と
高等教育および科学研究への影響

予備調査報告

大井 玄国立環境研究所)   大塚 柳太郎東京大学

目次


はじめに3

I.歴史・社会的背景・3

II.行政改革の実施
 1.経緯.4
 2.社会経済面での改革.4
 3.教育改革5
 4.国立研究所の改革・6

III.改革の思想的基盤について
 1.人間と場についての認識6
 2.新古典派理論の制度的前提7

IV.NZ行革における大学と国立研究機関

 1.大学・国立研究所の法人(企業)化と研究資金(購入代金)の配分)8

 2.大学の法人化10
  1)経営、教育、研究10
   a.収入構造の変化10
   b.教育の商業化10
   c.学生の費用負担10
   d.競争と合併10
  2)影響.11
   a.大学の役割の縮小11
   b.進学11
   c.若者と頭脳の流出・・11
   d.大学教師の行動変化・12
     i)教育への対応.12
    ii)研究への対応12
    iii)研究者の意識変化12

 3.国立研究所の法人化12
  1)経営と財務13
  2)連携大学院13
  3)社会とのかかわり13

V.考察

 1.総論14

 2.行革はNZ社会で成功したのか失敗したのか14

  1)経済の成り行き14
   a.行革経済実績のオーストラリア、OECDとの比較i4
   b.雇用状況と失業率15
   c.OECDのNZ行革に対する評価16
  2)社会的コストと政治的意思表示
  3)教育と研究の改革はその目的を達成したのか
 3.人開を経済的存在とのみ定義することの含意

 4.NZ行革の報道のされ方は適切だったか
  1)報道姿勢の変化
  2)日本での報道
   例1(1995年12月24日付の朝日新聞)
   例2(1997年春の朝日新聞「主張・解説」)
   例3(政治家によるNZ行革の紹介)


VI.まとめ

文献

はじめに


私たちは、平成12年6月22日より26日までニュ−ジ−ランド(以下、NZ)の大学(オ −クランド大学、マッセイ大学、オタゴ大学)、政府機関(研究科学技術省)、研究 機関(株式会社・国立水大気研究所、National Institute of Water and Atmospheric Research Ltd, NIWA)を訪れ、同国の行政改革(以下、行革)による高 等教育および科学研究への影響について調査を行った。 情報収集にあたっては、社会改革はそれにより利益を受ける立場と犠牲を払う立場を つくりだす以上、広く双方の立場を聞くことを意図した。しかし時間的制約のため、 この原則を全うできず、特に研究所についてはもっとも成功している1カ所の取材に とどまった。それゆえ、この報告書は、短期間の不十分な視察に基づく予備的なもの であることを断っておきたい。 NZ行革は、しばしば「NZの実験」といわれることからもうかがわれるように、その劇 的かつ徹底したやり方は民主国家では異色であり、同国での評価は賛否が激しく分か れている。この「実験」の本質的特色は、改革を断行した人々が新古典派経済理論に 依拠する「市場原理主義者」であったことである。今回明らかになったのは、教育・ 研究の目標設定の隅々に至るまで、新古典派経済理論が当然視する人間観が基底にあ ったことである。報告者たちは、経済学を専門としない。ゆえに、人間を社会的文化 的存在としてよりも、経済的存在としてとり扱う思想が研究・教育にまで浸透してい るのを見て、新古典派理論の想定する人間を文化心理学の観点から再定義し、さらに 同理論の制度的前提について検討するため一章を設けた。これは何よりも、私たち自 身が行革の意味を理解する際の一助にと願うからである。

行革以前から四半世紀にわってNZで研究者として生活し、自らの観察に基づく貴重な 報告が、河内によってなされている。本報告でも幾つか引用しているが、添付資料と してつけてあるので、あわせて一読されることをお勧めする

情報提供者は、それぞれの視点から、時として驚くほど率直にその見解を語ってくれ た。以下に訪問順に氏名を列記し謝意を表したい。

R. Anderson、B. Jordan (以上、マッセイ大学)、 J. Kelsey、 T. Kjellstrom、 B. Scoggins、 P. Black (以上、オ−クランド大学)、G. Rys (研究科学技術省)、 A. Mathew (株式会社・国立水大気研究所)、P. Howden-Chapman、 P. Crampton、 A. Woodward(オタゴ大学医学部)。

I.歴史・社会的背景

NZは北海道を除く日本にほぼ匹敵する面積で、人口は現在380万である。住民のエス ニシティは、マオリおよびNZ領南太平洋諸島の先住民族(以下、マオリとして一括す る)が20%、ヨ−ロッパ系76%、アジア系4%(1996年)である。近年、中国を主と するアジア系の移民が著しい。また人口の実に85%は、オ−クランドを筆頭とする都 市部(人口3万以上の行政区)に居住している。

歴史的には、19世紀前半にイギリスからの移民が増え、マオリとの抗争事件が急増し た。1840年に、マオリはワイタンギ条約を大英帝国ヴィクトリア女王との間に結び、 マオリ所有の土地、森林、水産資源を「保証」することを条件に、マオリ酋長が主権 者として行使していた権利を女王に割譲した。しかし、同条約はその解釈をめぐり現 在に至るまで多くの問題を引き起こしている。マオリはNZ社会において経済的に最下 層にあり、失業率は最も高く、現在高等教育を受ける割合も最も低い。

政治的には、NZは行革時まで国民党と労働党の二大政党による政権交代を繰り返して きた。議会は一院制で、議員は小選挙区制で選出されてきた。このため、投票獲得率 では接近しても、政権党が絶対多数の議席をとりやすく、政策を強く推し進めるのに 適していた。しかし、1996年からは比例代表制選挙となり、一党だけでは政権が維持 しにくいものになった。また、文化的にはイギリス(以下、UK)の植民地であった歴 史的経緯により、UKに対する憧憬の念が強く、その知的影響を受けやすいとの指摘が ある。さらに、このような特徴は、ほとんどの学者がUKやアメリカで大学 院教育を受けたため、自国の独自性を無視しがちであることにも表れているという

NZは伝統的に、羊、牛、木材などの農産物の輸出国であり、金融においてはオ−スト ラリアなどの外国資本への依存度が高かった。また、輸出は1960年代まではかつての 宗主国UKにその主たる販路が向けられていた。しかし、1970年代にUKはヨ−ロッパ共 同体(以下、EU)の一員としての制約が増したこともあり、NZはその伝統的農産物市 場を失うばかりか、二度のオイルショックを経験し財政状態が悪化した。

当時のマルドゥ−ン首相が率いる国民党内閣は、このような経済悪化に対しても、助 成金交付による農業保護政策を続けた。また、「大きいことを考えよう(Think Big)」という標語のもとに、巨大発電所を作ってのアルミニウム精錬、天然ガスを 原料とする石油合成などの鉱工業開発政策を開始したものの、次々に失敗する。財政 悪化、経済低滞、インフレ、失業者の増加(1975年に3,000、1980年に21,000、1984 年に50,000)などの状況悪化は、同党の内部で、市場原理を重視する新古典派のエコ ノミストたちによるマルドゥ−ンへの造反の芽を育てた。また、労働党や大蔵省 の中核も同じ考えを抱く改革派が占めるようになった。

II.行政改革の実施

1.経緯

1984年、労働党が政権をとるや、一気に行革が行われた。それは多くの場合、政府内 部でも秘密裏に、ヒトラ−の「電撃戦(Blitzkrieg)」に比せられる速度で推し進め られた。行革の内容は広範にわたり、根本的であり、国の規模の小ささと強力な 行政権が結合した時に初めて可能であることを思わせる。その項目は9つに分類され るが、本報告は教育改革と国立研究所の改革に焦点を当てているので、そ のほかの7項目についてはその要約だけを記すことにする。

2.社会経済面での改革

21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、林業、金融など)が民営移管された か、ほとんどが外国資本に売却された。それとともに、国の会計には企業会計方式 (費用の発生、収益実現時点での損益認識)が組み込まれた。この過程で、通産省、 公共事業省、科学工業技術庁、エネルギ−省は廃止され、「国家公務員」は1985年の 8万5000人から1996年の3万4000人に減少した。

税制改革については、最高税率を66%から33%に下げ、相続税、キャピタタルゲイン 課税をほぼ廃止し、消費税率(現在は12.5%)を高めるなど、高所得者層にとって有 利で低所得者層に不利な一連の改革が行われた。

労働市場の自由化も進行し、1991年に実施された雇用契約法により、産業別全国労働 協約を廃止し、組合規定をなくした。このため労働組合の組織率は、8割であったも のが2割に低下した。またクロ−ズドショップ(単一組合労働契約)制をやめ個人労 働契約方式にしたため、1997年には団体雇用契約労働者は半分以下になった。

福祉面では、年金受給年齢を60歳より65歳に引上げ、支給割合を80%から65%へと引 下げた。また、医療費の有料化や失業手当ての引下げも行われた。

補助金の廃止も実施されたが、廃止されたものの中には、農民の平均収入の40%を占 めていた農業補助金、輸出奨励制度、企業補助金制度などがある。

これらのほかにも、金融自由化の実施や地方行政改革などが行革の主たる事項として あげられようが、ここでは割愛する。

3.教育改革

教育改革の根本理念は、教育も規制を廃止した市場原理により選別されていくべきと いうものである。すなわち教育は、需要と供給の力が働く場に提供される商品( commodity)であり、技能にたけた科学技術に明るい集団を養成することを主要目的 とすることになった。

初等中等教育については、教育省の役割は大幅に減らされ、学生の頭割りの予算配分 と大学入学資格試験の実施のみとなった。ゆえに、国家教育行政というものはなくな り、学校運営は学校自身にゆだねられ、その監視役として、独立した教育評価局が置 かれることとなった。現在の学校運営は、その学校理事会が財政・人事の決定権をも つ。たとえば、初等教育の理事会は校長、教師1名、親3名により構成され、生徒代 表の1名を加えることができる。学校区は廃止され、結果として、近くにあっても貧 乏な子弟は入学できない「優れた豊かな」学校と、「貧しく廃校の危険性が高い」学 校とが生じた。学校財政は次第に親からの「寄付」に依存する割合が高くなったが、 その額は生徒当り10ドルから100ドルなど地域によって異なっている10。なお、 本報告書ではドルとはNZドルを指しており、1NZドルは約50円である(2000年の本調 査時点)。

高等教育は「教育市場」における私的財(private goods)であるから、論理的帰結 として、?教育の経済負担は国家から学生へと移行し、?研究機能は教育機能から分 離され、研究成果はやはり「研究市場」において競争を通じて売買される、ことにな った。大学の法人化は、1989年より実施された。1988年以前は返済不要の奨学資金( bursary)のため、実際的には只だった国立大学(8校)、国立専門学校(24校)の 授業料は有料となり、年間授業料は大学では最低で1,000ドルである。

以上の改革の正当化として、次のような公式発言がなされている11。「前提とさ れるのは、大学は社会に対する効用を証明しなければならないということである。す なわち、開かれた市場に身を置き、授業料の支払いを通じて中核的資金を提供する学 生たちを獲得するため競争しなければならない。もし大学の研究が価値あるならば、 限られた資金を獲得するため厳しい競争の洗礼を受けることができる。」、というこ とである。

4.国立研究所の改革

1992年に、科学工業技術庁(Department of Scientific and Industrial Research, DSIR)は10の王立研究所(Crown Research Institutes, CRI)に分割され民営化され た。そのうち、数学研究所は1994年に破産したため、現存するCRIは、NZ牧畜農業研 究所、NZ園芸食糧研究所、NZ穀物食糧研究所、NZ森林研究所、産業研究所、NZ土地保 善研究所、地質・核科学研究所、国立水・大気研究所、環境科学研究所、の9つであ る。いずれも、政府が最大株主の会社組織である。これらは商業活動を行う会社とし て位置づけられており、研究所の年報は株主総会への報告資料そのままである(12)。 会社(研究所)の重役会のメンバ−は、弁護士、会計士、経営者などにより占 められ、科学者を代表する重役は1人にとどまるのが普通である13

平松によれば、以上の諸改革は「政府の責任は金融政策のみに限定され、生産や雇用 に口をださないとの(レザフェ−レ)原則」に基づくという。一方、KelseyはNZ の行政改革を要約して以下の5原則を挙げている14

1)国内市場と貿易の自由化

2)行政の規制と権限の縮小

3)価格安定を至上目標とする財政政策

4)労働力市場の規制廃止と労働者の非組合化

5)課税対象基盤の拡大と行政および社会福祉への費用削減

いずれの解釈でも、教育・研究をも含めた経済行為は、政府が規制せず放任すれば、 最後には市場原理に基づく調整が最良の結果をもたらすとの信念が行革の基底にある ことをうかがわせる。

III.改革の思想的基盤について

1.人間と場についての認識

NZ行革を実施した市場原理主義者たちの認識によれば、個人はいずれも自立し、自分 にとって最良の判断、選択、意思決定を行う能力をもつ存在である。そこには、欲す るものを追求する競争を行い、国家による干渉を最小に抑えるならば、社会全体とし て最大の利益が生ずるという期待がある。いうまでもなく、これは歴史的には新大陸 に移民してきた白人たちが描いた期待である。

しかし、この期待が現実性をもつのは以下の5つの前提条件が揃っている場合であ る。すなわち、?人間活動の場は活動規模に比べてほとんど無限に大きい、?生存に 必要な資源が存在する、?資源を富に変える技術がある、?競争に破れた者が生きの び敗者復活戦を行う余裕がある、?個人は他者と関わりなく自己中心的行動をする、 というものである。これらの特徴を持つ系(システム)を「開放系」と呼ぶならば、 歴史的には北アメリカ大陸におけるニュ−フロンティアの時期は「疑似開放系」とみ なされるとしても、このような条件が揃うことは地球上に存在しないといってよい。 現実には、おおげさにいうと10畳の空間に10人が生活している閉鎖系に近いのであっ て、その場を破壊せず、汚さずに、次世代に引き継いでいくためには、周到に調節さ れた行動をする必要が生じている。

開放系において、生存確率を最大にする生き方は自立自尊である。これは北米で歴史 的に形成された白人層の信念であるが、その基底には、自己(あるいは人間)は画然 として他者とは切り離され、独自で、情動・認識が統合された存在である、という根 本認識がある。自己は判断、選択、意思決定を行うダイナミックな中心として知覚さ れ、他者も同様な思考・行為主体であると期待される。文化心理学者の北山とマ−カ スは、自己(人間)認識はその系の文化により形成されるとして、この型の自己を 「相互独立的自己(independent self)」と呼んだ15。この自己にとっての自己 実現は、自己の欲求、自負する才能といった中心的属性の具現化である。これに対し て、日本を含む東洋の文化では、自己は他者と根元的に結びついているという認識に 立つ。すなわち、生存には他者との良好な関係が必須であり、「相互協調的自己( interdependent self)」といわれるゆえんである。これは、人間活動に比べ、歴史 的にその場は狭く、資源が乏しい条件(「閉鎖系」)の文化で広く見られる人間認識 である15。相互協調的自己にとっての自己実現は、たとえば、自己が他者によっ て期待された役割を見事に果たした際に感ずる満足のように、与えられた役割遂行に より他者との連がりを強化することに埋没している。

さらに、人間行動を律する意味での倫理意識の視点からの検証も必要である。集団 (社会、国など)の倫理を、その集団が存続する過程で形成される「生存戦略的指 針」として、個人の倫理を、当該集団での構成要員としての生存確率を最大にするよ うな行動パタ−ンとして理解するならば、自立自尊は「開放系」における倫理的中核 概念である16。一方の閉鎖系においては、集団存続と構成要員の生存が両立する 場合としない場合とで、個人に対する倫理的要請は変わってくる可能性がある。基本 的には、集団における当該個人の役割を果たすため、利己的欲望を抑制する方向に働 くといえよう16。幼児期から成長の過程で、倫理的行動は繰り返し学習され倫理 意識化されるが、一たん倫理意識化されると、それは個人の価値観に組み入れられ、 文化的事象認識、価値判断において偏りを生ぜしめる潜在的原因になる。

2.新古典派理論の制度的前提

新古典派が措定する人間像は「開放系」の中での「相互独立的自己」であるといって よい。ここで、新古典派理論の基盤となる制度的前提を整理しておきたい。

宇沢によれば、「新古典派理論は、純粋な分権的市場制度を通じて資源配分がおこな われているような国民経済を主な分析対象としている」経済理論という。したがっ て、新古典派理論は以下の市場経済の制度的前提と密接な関わりをもつ17

制度的前提の第1は、生産手段の私有制である。すなわち、生産や消費という経済活 動に際して必要とされる希少資源は、すべて個々の経済主体に分属されており、経済 主体はそれぞれの希少資源を自由に使用できる。この前提によれば、もし私有されて いない資源が存在すればそれは希少性をもたず、各経済主体が自由に使ってもよいこ とになる。したがって、生産手段の私有制が厳密に成立するのは、人間活動に比べて 無限に広いスペ−スと豊富な資源といった開放系の場が用意されている場合である。 実際には日本経済のように、国土面積に比較して経済といった人間活動の水準が高い 国、すなわち閉鎖系の条件がきわめて明瞭な国については、自然環境および都市環境 から生み出されるサ−ビスは、高い希少性を持っている。宇沢は、生産手段の私有制 を前提とする新古典派は、まずこの点でその現実妥当性が問われるという17

第2の前提は、各経済主体は、それぞれ所有する生産要素を市場に供給し、市場価格 によって評価された額を所得として得るというものである。これについても宇沢の批 判がある。「しかしある人(経済主体)について、その所有する労働に対する市場の 評価が低く、生存するに必要な収入を得られないものであったとしよう。この人は生 存することが不可能となってしまうが、新古典派理論ではこの点に対する配慮はまっ たくなされていない」17。開放系においては、敗者は餓死することなく再度復活 戦を行う余裕があるのだが、人口増に伴い、開放系と呼びうる場は存在しがたくなっ ている。

実際、福祉経済制度という考え方の背後には、各個人は、たとえ市場で評価される資 源を持っていなくても、健康にして快適な生活に必要なサ−ビスを享受する基本的な 権利を持つという思想がある。ヨ−ロッパ、日本などの閉鎖系の意識が強い国々では この考えがはっきりしている。ところが新古典派理論では各個人は社会のサ−ビスを 受ける人間としてではなく、単なる消費と生産要素としての経済主体としかとらえら れていない。

第3の前提は、個人への分解可能性である。つまり、「経済循環のプロセスの分析 が、各個人の行動を分析し、それを集計することによって可能になる。しかも、各個 人は合理的に選択し、行動し、その行動基準は、経済循環のプロセスとは無関係にア プリオリに与えられるものであるという前提である」17。この個人行動への分解 可能性を前提とするならば、「企業はたんなる物や人という生産要素の集合にすぎ ず、一つの合目的的な有機体構成をもった経営・管理組織としてはとらえられていな い。企業に属する個人はそれぞれの価値判断にもとづいて合理的に行動する。企業活 動はそれらの個々の行動を集計することにより説明される」17。企業を構成する 物的生産要素の所有者(つまり株主・経営者)は、期待する利潤率が支払われなくな ると、より高い利潤率を生み出す他の用途に物的生産要素を振り向ける。人的生産要 素(従業員)も、より高い賃金率を求めて移動する。自分の属する企業への帰属意 識、人間関係、仲間意識さらには企業の有する社会的意義などは想定されていない。

要約すると、新古典派理論が前提とする場は開放系であり、人間はばらばらな相互独 立的自己的個人である。

IV.NZ行革における大学と国立研究機関

1.大学・国立研究所の法人(企業)化と研究資金(購入代金)の配分

NZ行革に通底する人間観も、人間とは市場における経済主体である、というものであ る。教育も研究も経済活動として定義される。大学や研究所も、経済主体が利用し、 最も効率的生産をあげるべく経営・管理・組織などを整える、という民営化された企 業として捉えられ、他の同様の企業と市場において競争することになる。一方、教育 と研究は、別種の経済活動として区別され、それぞれの市場において競争する。した がって、「研究市場」においては生産物の購入はできるだけ一元化された形で行うべ きである。換言するならば、研究資金の配分はできるかぎり同一機関で行うのが望ま しい。

NZ政府は、1984年に研究・開発(R&D)を特別視することなく一般の企業投資と同じ 扱いにすることを決め、翌年には公立の研究開発において費用に見合う収益をあげる ことを求めた18。更に1992年には大学を法人(企業)化(quasi corporatiztion)し、学生は授業料を払うこととなった19。また科学工業技術 庁、DSIR)を10の王立研究所(Crown Research Institutes; CRI)に分割し法人化し たが、改組の理念と実際は以下のごとくまとめられよう20

1)研究の究極の目的は、NZを「知識社会(knowledge society)」にすることであ る。

2)研究科学技術省(Ministry of Research, Science and Technology; MoRST)を 設立し、国の科学研究政策形成や評価にかかわらせる。

3)生産された研究成果の購入機関として科学技術研究基金(Foundation of Research, Science and Technology; FRST)が設立された。ただし、特定分野のため に健康研究審議会(Health Research Council; HRC)とNZ王立協会(Royal Society of NZ; RSNZ)も設立された。これらの機関は、提供者(provider)すなわち研究所 や大学から生産された研究成果を購入する。このように、定められた課題に応じて行 われる研究の成果をFRSTが「買いあげ予約」し、公共有益科学基金(Public Good Science Fund; PGSF)が代金とも言うべき研究資金を配分する形式である。またPGSF は「経済戦略遂行」のための研究資金と定義され、配分は研究過程に対してではな く、予想される結果が、科学的には勿論、どのくらい「社会的に適切か(socially relevant)」に応じてなされる。「社会的適切さ」とは最終利用者(end-user)であ る企業の要望によって決まるから、基礎研究は構造的に軽視されることになる。

4)研究成果の提供者である大学や研究所はPGSFからの配分を受けるため、成果の 「社会的適切さ」がなにであるかを常に把握することを迫られる。

ところで、NZは歴史的にGDPの0.4%以下しか研究開発に投下してこなかったし、産業 界からの投資はほとんどなかったといわれる。1980年代の経済苦境時には科学研究費 は30%近く減少していた2122。またPGSFの総額は、当初の5年間(1990〜 96年)における2億5500万ドルから2億5800万ドルへ微増したにとどまっている。

現在、購入機関が重点を置く「達成すべき結果(target outcomes)」の指定分野が 14項目ある。たとえば、「新しい知識集約型事業からの富」、「富創造型食糧・線維 企業」、「革新的製造やサ−ビス事業」、「自然資源の持続可能な利用」などであ る20。PGSFの設立当初(1990/91年度)は40の重点分野があり、40のテ−マが採 択された。そのうちの16は農業関連の応用研究でPGSF総額の52%を占めたが、「基礎 知識」のテ−マへの割当額はわずか1%であった。指定分野はその時々の戦略的重要 性に応じて変化し、1995年には17テ−マに減り、農漁業の応用テ−マが8件で額とし て76%を占めた13

基礎科学研究のためのマ−スデン基金が1994年に発足したが、総額はPGSFの2%にす ぎず、初年度の応募1,028件に対し採択は60件にすぎなかった。なお、1999年度にお いてはFRST、 HRC、RSNZなどすべてを加えたNZの科学研究費総額は4億7400万ドルで あり、マ−スデン基金は2500万ドルに増加している23

以上のように、科学技術研究を推進すること自体が、市場での経済行為の一環として 理解されている。

2.大学の法人化

国立大学は法人(企業)化され、その教育は市場競争を通じて商業化が顕著になりつ つある。この大学における変化については、主として河内の報告24)とオ−クラン ド大学での聞き取り25)に従って、記載する。

1)経営、教育、研究

a.収入構造の変化

従来交付金を支給していた大学研究基金委員会(University Grants Committee)は 1990年に廃止され、新規機器購入や施設などのインフラ・ストラクチャ−への予算が なくなった。支給されるのは学生数に応じた教育補助金である。また授業料の額は、 大学が学生数などの需要にあわせて定める権限をもつこととなった。

研究費は、従来のような頭わりの研究費が廃止され、すべてPGSFなど競争的資金とし て配分されるようになった。またドクタ−コ−スやポスドクの奨学金もPGSFに移管さ れた。PGSFによる奨学金は、最初単年度限りであったがその後2年(一部では3年) に延長された。なお、PGSFには研究者の給与も含まれているため、2年ごとにあらた に応募することになっている予算が取れなければ、給与がなくなることになる。研究 者の地位は極めて不安定になった。

b.教育の商業化

教育予算が学生数に応じ配分され、授業料は大学ごとに決められるようになった結 果、国立大学間での学生のとり合いが激しくなった。また、授業料は毎年のように値 上げされるようになったが、学生数が少なくなって費用を回収できない学科は廃止・ 削減の可能性が高くなっている。

優秀な学生は自然科学にこなくなり、卒業後すぐ給料が得られると思われる商学部や 観光学科に殺到することになった。また市場の需要があるという理由で、応用科学の 名のもとに占星術やホメオパシ−のコ−スを開講する動きさえあるという26

教育産業は外貨獲得にも役立つため、NZ人の10倍も授業料を払う留学生が歓迎されて いる。また学費のきわめて高い歯学部では留学生が75%を占めるようになった26

c.学生の費用負担

現在、大学生は教育に必要な費用の25%を学費として払う。これは年々15%ぐらいず つ上昇してきており、現在では最低で1,000ドルである。また返還不要の奨学資金は 廃止された。したがって経済力のない学生は政府保証の銀行ロ−ン(当初実質利子 10%以上)を借り、生活費と学費に充てている。1997年の時点でその総額が17億ドル に達しており、数年後には50億ドルを突破すると予想される24。また返済の条件 は、卒業後年収が14,000ドルになると返済を開始するというものであるが、この額は 現在のNZにおける平均年収の半額以下である。オ−ストラリアの同種のロ−ンの、平 均年収のレベルに達してから返済が始まることよりも不利である。さらに、そのころ に結婚して家の購入ロ−ンを借りたりすることや子供が生まれることを考慮すると苛 酷な条件といえる24。、25)この改革は、学生に対して厳しい措置であるが、 「大学へ進む人間は、大学という教育施設を利用し、利益を挙げる受益者(user)で ある。したがって、受益者が利用する施設の管理、維持を含め費用を負担するのは当 然である」と説明されている2728

d.競争と合併

大学は企業であるから、その実績に応じ企業体の拡大縮小を行うことが自由になっ た。たとえば、マッセイ大学はウェリントンで高等専門学校を合併したが29、専 門学校は図書館などの高等教育機関としてのインフラ・ストラクチャ−が不備で、教 授陣の資格も大学より劣るためこの合併は大学の質の低下をもたらすとの批判もあ る25

2)影響

a.大学の役割の縮小

大学には教育・研究以外の役割として社会に対するサ−ビスを行う機能と責任がある が、この役割が縮小した。このような責任とは、知識の創造と拡大、歴史・文化・社 会的知識の保存と伝承、国や専門領域に対する学識経験者としての助言、そして社会 への警鐘といった役割である30

b.進学

マオリはもともと高等教育まで進む率が低かったが、経済的負担が学生に課せられる ことにより進学率はさらに低下した。ただし、このことはマオリの知力が劣っている のではなく、彼らの生活文化自体が白人のそれに比べ非競争的であるからという31

前述したとおり、学部選択において理工系への進学率が低下し、さらに研究者になる 者の数が減りつつある。これは科学研究の道が、研究資金の受給期間が短い上、応用 研究へ配分が偏り、身分が不安定であるため、若者を怖じけさせる雰囲気( intimidating atmosphere)に充ちているからとの解釈もある。事実、社会科学、人 文科学、語学、歴史学、女性学、基礎科学(とくに理論物理学や化学)への志望者が 少なくなった32

c.若者と頭脳の流出

NZの若者の国外流出についての統計資料は入手できてはいないが、それはすでに国際 的によく知られていると思われる34。マルドゥ−ン政権時にすでに海外への移民 数は多く、一時沈静したものの労働党政権下でまた増え、1985年から1991年の間は年 平均で11,000人であった。技能を持った人たちが主であり熟練労働力の不足が起こっ た。そのため1991年後半以降、アジア諸国や南アフリカ共和国など海外から技能を持 った人々(例えば医師)の移入を求め、このような人々は1991年から1993年の期間に 年平均にして約5,000人に達した33

大学卒業までに借金を抱え、さらに利己的経済主体であると教えられたNZの若者が、 高失業率かつ市場規模の小さいNZよりも、US、UK、オ−ストラリアなど、英語圏でも より大きく、かつより高い利潤があげられる市場へ移住するのは自然な傾向であろ う。実際に大学の企業化でいちばん成功しているマッセイ大学のR. Anderson教授の 子息は、約600万円の負債を卒業までに抱えたため、現在ではロンドンに在住し歯科 医として働いている35

円熟した研究者であっても、基礎科学研究分野の縮小が大幅に進められ、再就職の機 会がほとんどない情況では国外流出は不可避である。河内による「NZ地質調査所の解 体再編成」は優れた事例報告であると同時に、解体再編成によるCRIの1つである地 質・核科学研究所(IGNS)の置かれた厳しい様子を伝えている。この報告による と、同研究所は1992年の発足時には総人員が220名で予算は16億円余りであった。こ れを、日本の国立環境研究所が同年に総人員が270名で予算が72億円(人件費19億 円)であったことと比べると、物価が安いNZでも厳しい経営を迫られているのがわか る。

d.大学教師の行動変化

i) 教育への対応

大学は学生数を増やすことにより利益をあげる以上、学生を集める教師への評価は上 げざるをえない。また「利用者」としての学生はよい教育サ−ビスを提供する教師を 選択し、評価する。したがって教師は教育への努力を払わざるをえない。これをもっ て、教師的プロフェッショナリズムがつよくなったという評価もある36

ii)研究への対応

学生数をふやすための教育努力は、同時に研究に割く余裕が減少する可能性が大きくなることを意味する3738。このジレンマに対応するための方策は、たとえ ば修士課程、博士課程の院生の数を増やし、結果が予想されやすい応用研究の課題を 与え実質的な研究は学生にやらせ、最後に教師が手を加えて体裁をととのえるとい う、「研究の水増し」を行うのである。別の可能性として、研究費も与えられない厳 しい状況では、国際共同研究を海外の研究者と行うこともあるが、結局は、多くの研 究者が外国に移住している。

もちろん、研究がNZの志向する産業分野と合致するなど、いわゆる重点分野研究に関 係する場合、大学の研究者の感想はより楽観的である。それは、NZが国際的競争力を 維持しており、利潤を生むと考えられる分野、すなわち農林(遺伝子工学)、造園、 水産(海洋の生物多様性)、環境(気候変動)などである。これらの分野で進められ るバイオテクノロジ−関係の研究は、外国人研究者も加わり優遇されている3942

iii)研究者の意識変化

研究における厳しい競争は、勝者と敗者の格差を大きくするとともに、予期せぬ知的 情況をも生み出した。それは情報の価値が上昇したため、以前は自然に行われていた 情報交換が減り、いわば知識や情報のかこい込みのような現象が起こったことであ る。すなわち、研究が競争的経済行為(economic enterprise)という認識が徹底し てきたのである42。そのため現在の労働党内閣は競争よりも協同を重視する研究 政策に変えつつある。興味深いのは、法人化・企業化されると、研究機関間の協力関 係が薄くなるなどの悪影響がオ−ストラリア連邦議会下院の産業・科学・資源委員会 でも問題になっていることである43。それによれば悪影響とは、?R&Dが、長期 間の利益よりも短期間の利益を目指す傾向、?公共的に重要ではあるが利益のうすい 型のR&Dや情報収集を軽視すること、?情報の所有資格についての不明確さ、?企業 化あるいは民営化された研究機関間同士での、あるいはこれらの機関と外部研究機関 との間での、R&Dについて協力関係が減っていること、があげられる。

行革による大学法人化について、その評価者が利を得ているか、不利益を被っている かにより賛否は分かれよう。しかし大学の大多数の研究者の志気がおちているという 現象は、経年的に行われている研究者の意識調査で明らかにされたという44。筆 者らが今回訪れた大学の中では、マッセイ大学以外のオ−クランド大学、オタゴ大学 ではすべての教授が同様の感想であった45

3.国立研究所の法人化

前述したとおり、1992年に科学工業技術庁(DSIR)は、それぞれの分野に応じた10の 王立研究所(CRI)に分割された。今回訪れたのはそのうちの国立水大気研究所( NIWA)のみである。同研究所での経営・研究状況について以下に述べる。

1)経営と財務

NIWAは設立以来CRIの中で最も成功した研究企業といわれている。政府からのR&D支出 (GDPの0.4%)は行革開始の1984年以来年々減少し、1991年には三分の二まで減少し たが、NIWAはその苦況も乗り切ってきた。1999年の年報によれば、その財務状況は収 入6,500万ドル、税引後の利益470万ドル、配当10.7%で、所員数は560人という。財 務での「生産性」は?研究者(技術者)あたりの収入(14万ドル)、?人件費に対す る収入の比(2.01)、などと記されている。収入はいくつかのカテゴリ−を含んでい る。PGSFからの収入がもっとも大きく3,500万ドルであり、残りは水産省から1,200万 ドルと企業などからの資金である。PGSFからの資金がNIWAにとって半分以上の収入で あり、現在これが1992−93年の設立時より4割も増えていることがこの研究所が「も っとも成功したCRI」といわれるゆえんである。

NIWAが抱える問題も指摘されているが、市場での売買のいざこざを思わせるものがあ る。たとえば、FRSTを通じて、顧客(末端利用者である end-user)に研究成果を売 る際、提供者と顧客と間に研究成果(商品)をめぐって、評価つまり売り値と買い値 が一致しないことがある。このため研究計画を申請する時点で、主要な顧客との相談 が要望されるという。

PGSFの中の約10%を占める「非特定成果資金」(non-specific output fund; NSOF) は自由な目的に使用できる資金であり、NIWAでは?新しいPGSFプロジェクトの開発、 ?資金操りが不足したプロジェクトへの支援、?資金調達で成功する確率の低い( high risk)戦略的研究への支援、?比較的緊急性を要する環境問題への対応、?ポ スドクフェロ−支援計画(19人)など、地味であるが研究戦略や若い研究者の補充と いう、研究所にとって基本的重要性をもつ目的につかわれている。

2)連携大学院

1998年秋、NIWAはオ−クランド大学と協定し、水・大気科学大学院(Institute of Aquatic and Atmospheric Sciences; IAAS)を設立した。その目的は、多分野技能を 習得した修士・博士号をもつ卒業生をだすことにより、現在すでに不足している水・ 大気関連の科学者を養成していくものである。この事業には同大学の生物科学、工 学、地理学、環境科学、海洋学、数学、物理などの学部学科が参加している。大学と CRIがこのような広範な分野で連携大学院課程を開くのは、NZにおいても初の事例 で、大学とNIWAのスタッフは、共同して各分野の授業を行い、大学院生の研究指導に 当たっている。またIAASの学生はNIWAの研究設備を利用することが許される。

大学の教育機能、CRIの研究設備、そして両機関の人材の専門的知識を合わせて活用 する究極の目標は、IAASが国際的に認知され、NZはいうに及ばず海外から優秀な学生 が応募する大学院大学にすることにある。現在、あるいは近未来において水・大気分 野の専門家は世界的にも人材不足であり、このようなCOEを設立することは将来を見 控えた必要措置といえよう。

3)社会とのかかわり

NIWAは、沿岸や深海の調査研究船を小中学生の環境研究に提供している。“Sea and Learn”Programと呼ばれるもので、これは無料の社会教育的プログラムであり、現在 スポンサ−を探しているという。

V.考察

1.総論

この報告書をまとめるに当たり、直ちに目につく制約がある。まず、調査期間が短す ぎる(実質4日)ことである。そして、被調査者は大学、CRI、MoRSTを代表するには 少なすぎることに加え、CRIの中で成功しているNIWAのみを訪れ、苦戦している他機 関を調べていないことである。さらにNZの社会文化そして行革の経緯について、26年 間にわたりNZに滞在した河内の報告のようには、情報に重み付けがなされず、記載が 平板化した憾みがあることもあげられよう。

にもかかわらず、今回考察すべき問題がいくつか浮かびあがったことも指摘できよ う。以下に、3つの項目に整理して述べることにする。

2.行革はNZ社会で成功したのか失敗したのか

このことを考えるにあたっては、少なくとも、経済、社会、高等教育・研究の3側面 から評価されなければならない。またこれらの側面は相互に切り離しがたく関連して いることが重要である。たとえば、研究の改革は短期間に経済的利益をあげることに 努力を収束させており、改革の評価は経済(特に輸出産業)の生産性向上によって表 現できると期待されている。また経済成果の評価はNZが属する先進国グル−プのOECD との比較、特に政治的理由から行革を徹底させなかったオ−ストラリアとの比較が適 当と思われる。社会的には、行革の成功不成功は民主政治の下では有権者の意思表示 が最終の判断となろう。

行革は政府による規制の緩和を徹底させ、グロ−バライズされた市場における競争を 行うことにより、企業(大学・国立研究所も含む)の効率化をはかれば、おのずから 競争力のある企業が生き残ることを前提としている。それは一時的に社会に痛み(経 済格差の拡大、失業率の上昇など)を与えるが、効率化により競争力がつけば、社会 全体として高収入、低失業率を達成できると説明されたものである。しかし、行革が 断行されて15年経た現在、NZの経済・社会指標、国際的な評価、さらに有権者の政治 行動から見ても、NZの野心的な実験は成功したとは言いがたい。

1)経済の成り行き

a.行革後経済実績についてのOECD、オ−ストラリアとの比較

1997年に、B. Eastonは行革が実施された1985年から1996年までのNZの経済実績を総 括した46。それによれば経済指標の推移はインフレ率を除けば、失業率、雇用成 長、GDPの成長、労働生産性の成長、輸出数量成長、経常収支不足の全指標につい て、NZはOECD(平均)より劣っている46。1985年から1992年の7年間はこの差が 特に顕著で、OECD(平均)の経済成長がこの期間に20%(オ−ストラリアで17%) 上昇しているのに、NZでは1%低下している。

さらに、同期間の実績をオ−ストラリアと比べると、対外経常収支勘定を除く全指標 で劣っていた。しかも世界平均に比べ、規制緩和などで競争力が増したはずの輸出額 の伸びが低くなっている。一方、輸入額は増加傾向にある。また輸出産業において 1985年以降に生産性の伸びは見られてない。しかも輸出産業の競争力のレベルは1980 年代半ばに顕著に落ちているが、これはNZ中央銀行が実質為替レ−トを操作したから であるという46。またEastonの調査以後でも、GDP成長率は1997年度に1.5%, 1998年度は−0.2%という状況である(Fig. 1)。

生産性と成長率が心配の種になるのは、重要な国際経済指標、特に対外経常収支バラ ンスが大きく赤字であるからで、その額は1998年度にはGDPの6.4%であった(Fig.2。 1998度末には、NZの総対外債務は前年よりGDP比で2.2%増え、103.6%にのぼっているが(Fig. 3)、これは同国の輸出の約3年半分に達する。

GDPに対し、海外に送金される総利益、利息、配当を差し引いた後の所得(これがNZ 国民が利用できる分)の割合を過去50年にわたり概観すると、1970年代における石油 危機以降で急速に下降し1986年に至っている。1990年から1993年に多少回復するもの の、それ以後また急降下し1997年には戦後最悪を記録している(Fig. 4)。

行革の必要性を認めながらも、NZのように行革をごりごり断行しなかったオ−ストラ リアとの経済実績比較は、その歴史的経済的相似性から見て、OECDとの比較よりも適 切であろう。1999年、Dalzielは「NZの経済改革は失敗であった」という論文で、NZ のGDPを現実(行革を実施している)と、行革をしなかった場合(オ−ストラリアに 例をとる)を仮想した場合とを比較している。すなわち、1978年から1998年にかけて の両国の経済成長率を比較すると、GDPの軌跡は1984年までは驚くほど似ているのに 対し、この年以降は驚くほど違っている47。彼の結論は、以下のごとくである。

「もしNZが(1978年から1984年までのように)オ−ストラリアと同じ率で成長してい たならば、1985年から1998年の期間に、1995/96年の価格で2,100億(NZ)ドルにのぼ る余剰の生産が見込めたであろう。これは1998年のNZのGDPの2倍に達す る....。NZの惨めな経済実績をすべて行革のせいにするのは理不尽だろう。しか し、もしこの逸失生産の半分だけがNZ行革の『特別な性質』によるものだとしても、 それでも1年分以上の収入が犠牲にされたことになる。」

オ−ストラリアは、NZの行革に伴った社会的政治的混乱を避け、結果として長期間の 経済生産性を温存することになった。これに対しNZは、産業のリストラを極端に行 い、資本の破壊が大きかった。高失業率による消費の縮小、高利率による投資減少、 政府支出削減による一般消費の減少、NZドルが高水準に保たれたため新規輸出支出の 伸びなやみ、などでNZ経済は飢えたのである。労働党が1980年代後半に断行したビッ グバンがもたらした結果は、1990年代の短期間の経済成長によって代償されなかった わけである。経済政策の失敗は、結局、無辜の民が耐えしのんだのである。Dalziel の結論は、オ−ストラリアやOECDの他の諸国がNZの軌を踏むべきでない、というもの である。

b.雇用状況と失業率

雇用状況では常勤の職は、1987年2月の1,075,000に比べ、1998年11月では3.2%に相 当する34,400少なくなっている。逆に、非常勤が243,900増えており、これは100%以 上の伸びである。この傾向は1999年3月時点でも続いており、常勤はさらに1.4%減 り、非常勤は7.7%増えている48。常勤の職で著しく減少しているのは輸出産 業、特に製造業で、これがサ−ビス業の非常勤の職の増加へと移行しているのは雇用 の質が悪化していることを示唆している。

失業率は、若年層とマオリにおいて常に高い傾向にある。1999年春、失業率の三分の 一は25歳以下の若者であった。マオリの失業率は常時高く、1992年初めには16〜19歳 の約半分は失業していた(白人の場合は19.1%)。ただし、1999年3月にはマオリの 失業率は18%に、白人の失業率は5.6%に改善されている49

c.OECDのNZ行革に対する評価

OECDの経済報告は、当初からNZ行革に対し好意的楽観的な評価をし続けてきた。特に 1993年の報告などは、NZ行革が始まった1985年から1992年までの前述のような惨めな 経済実績を考えると、好意以上のものを感じさせる褒め方であった。しかし、1999年 の総括ではさすがにそのような調子ではなく、以下のように変わってきた(原文も併 記する)50。「要約すると、NZの行革後の経済体験は、中期経済を成長させ維持 するむずかしさを浮き彫りにしている。その示唆するところでは、政策を実施するだ けでは、有益で持続する結果を確保できないことである。そういう結果は、行革が政 策の全ての範囲でどう相互に影響し合っているか、またどのくらい政策環境に相応し いか、どのくらい深くまで適用されたかなどの条件に依るのである。またそのような 結果は過去の失敗に学ぶことにも依る。しかしながら、一つ明らかなことは、NZの経 験は経済行動を改善するうえでの経済戦略の重要性について証言を行ったという意味 で、相当の成果を挙げたことである。」

In summary, New Zealand’s post-reform economic experience highlights the difficulties in both raising and then maintaining medium-term growth. It suggests that policy implementation alone is not sufficient to ensure beneficial and lasting outcomes. Such outcomes rely on how reforms interact across the entire policy spectrum, whether they are consistent with the policy settings and how deeply they are applied. They also depend upon learning from past mistakes. It is clear, nevertheless, that the New Zealand experience has borne considerable fruit, providing testimony to the importance of the economic strategy in improving the performance of the economy.50)

つまり婉曲な言いまわしではあるが、OECDもNZ行革の経済的結果が失敗であったこと を明確に認めている。

2)社会的コストと政治的意思表示

行革実施後15年間、「社会的コストは支えきれないほど大きくなった」という。NZの 企業のうちの約90%は被雇用者が10人以下の小規模なものであり、地域共同体に固く 組み込まれている。すべての補助金、保護関税を突然撤廃することにより、多くの国 内向け製造業が倒産し、農家が破産した。数多くの地域共同体が、ほとんどあるいは 全く事前の通達もなく実施された政策によって崩壊した。地域産業が単一的な町や村 では、地域経済の担い手(木材工場、衣服工場、車の組立て工場、家畜の畜殺冷凍工 場など)が破産するのは壊滅的な影響を及ぼす。職がなくなると、店や銀行、学校や 救急サ−ビスなども成り立っていかなくなる51

富裕層は郊外に住み、都市では貧困層(マオリ、高齢者、女性、母子家庭、若年失業 者、労働者家族、新規移民、精神病者)が失業、貧困に呻吟することになった。富の 分極化の進行は速く、1984年と1996年の間に、収入の最上位を占める5%は国民所得 の配分を25%増やしたし、上位10%は15%増やした(Fig. 5)。一方、下層の80%に おいては所得は減っており、割合からいうと所得水準が低いほど減り方は大きい。

貧困が起こす現象は惨めである。1996年にウェリントン市で福祉手当をもらっている 100家族の調査によれば、大部分は食費と家賃を払うのに苦労しており、食事を抜 き、電気代を期日に支払えず、服や靴に事欠くという。25%は家具を売り、14%は洗 濯機がなく、33%は床にカ−ペットを敷かず、6%では暖房がなかった。過去6カ月 に医者に行けなかったのは43%、歯医者に行けなかったのが53%、処方箋の薬を買え なかったのが32%にのぼった52。実際、1989年から1992年の間に貧困層は35%増 えており、1993年にはNZ国民の6人に1人は貧困層に入ってしまった。

1930年の大恐慌以来初めて、教会や慈善団体によるス−プキッチンやフ−ドバンクが 復活し、1994年にはその数が全国で365に達した。その費用は2500万ドルに達した が、1991年の福祉手当ての縮少額は13億ドルであった。1999年の報告ではフ−ドバン クの需要が増えているが、その70%以上は初めて訪れる人たちであった53

犯罪件数は増え、警察、裁判所、刑務所などの予算が増えており、警察官の数は1990 年の6,037人から、1995年の8,639人に43%も増加した54

行政改革に対する国民の反応は、政治的意思表示となって現れる。ここで、日本人に よって行われた調査があるので引用しよう。平松が1998年5月、オ−クランド、ウェ リントン、クライストチャ−チなどの5都市で無作為抽出によるアンケ−ト調査(各 地でそれぞれ100人を対象にしたもので、回収率は57%)を行った結果によると、回 答者の6割は行革に不満をもっていた。規制緩和・民営化に明確に賛成したのは35% 、ある程度支持するが教育や福祉に問題ありとするのが14%であった。一方、行革に 明確に反対したのは40%であった。男女差もみられ、男性では行革賛成が35%、反対 が34%、ある程度の支持は29%であった。それに対し、女性では賛成が20%、反対が 59%、ある程度支持するが16%であった。特に目立つのは男性の40〜50歳代に賛成が 多く、女性の30〜50歳代に反対が多いことである。女性の大半は専業主婦か事務職で ある。平松は、現役でばりばりの男性には行革は快く、ふつうの市民生活者には厳し いと解析している55

NZの有権者の政治的意思表示は単に政権党の交代に止まらず、選挙制度自体の変革と なって現れている。既述したとおり、NZでは伝統的に二大政党(労働党と国民党)が ほぼ交互に政権をとり、しかも小選挙区制であるため、政権党は獲得投票数の割合に 不相応は大きい議席を獲得するのが常であった。このことが、1984年に選挙公約にか かげられていなかった行革という「実験的改革」を、「奇襲作戦」あるいは「電撃作 戦」といわれるやり方で「徹底的」に行うということを許したのである。このため、 有権者の反発により1990年には労働党が大敗した。しかし政権を握った国民党は行革 を続行したため、1993年には約30%の票が小数政党へ流れた。この年の選挙による民 意の反映は歪んだものであった。すなわち。わずか35%強の票を獲得した国民党が50 議席を得、35%弱の労働党が45議席を得たにもかかわらず、残りの30%は4議席にし か結びつかなかった。選挙民の不満は小選挙区制という選挙制度そのものを変え、ド イツに習った比例代表制を導入することとなった。これは明らかに、行革を推進した 政権党であった労働・国民両政党に対する不満の表明であった。

すなわち、1992年の選挙制度改変についてのレファレンダム(国民投票)では、圧倒 的に(85%)改変が支持された。そのうち、64.6%が比例代表制を選択した。このた め1993年の選挙では、次回(1996年)の選挙で比例代表制を採用するか否かが問わ れ、大企業が資金を提供した反対運動が行われたにもかかわらず、過半数(54%)が 改変を支持した56。労働党の当時の副党首で現首相のヘレン・クラ−クは、近年 における国民、労働両党による政権への幻滅感の度合いと、この選挙制度改変の要求 とは密接に関連していることを率直に認めている57

1996年の選挙は比例代表制を入れたもので、投票率は実に88%というものであった。 これにより「NZが第一」といった少数党が加わる連立政権が誕生し、市場原理主義者 たちも少数党に配慮せざるをえなくり、思い切った規制緩和を妨げる方向に力が働き はじめた。NZの実験は、社会的コストがあまりにも大きく、有権者により否定された のである。

3)教育と研究の改革はその目的を達成したのか

行革の方針は、高等教育や研究の諸機能のうち一部の機能の働きを最大にすることを 強要し、その機能の発揮度に応じて厳しく研究資金を配分することであった。一部の 機能とは、いうまでもなくNZに「経済的利益をもたらす」知的営為である。教育・研 究を通じてNZを「知識社会」にするという目標は、知識が経済的利益に結びつくとい う信念に発している。それは、「研究は経済的事業 (economic enterprise)であ る」と言う、研究科学技術省の官僚やCRIの経営者の発言にも明らかである。また、 その研究資金は1990年からPGSFにほぼまとめられて配分されるようになり、前述のと おり、農学関係の応用研究に主として配分された。基礎研究には研究資金がほとんど 流さないことにより、短期の利益を目指す経済活動としての研究の性格が顕著になっ た。

知的生産品としての研究成果の価値は、末端利用者の「経済的利益」あるいはその生 産性を高くする「可能性」である。したがって行革による高等教育・研究の改組の結 果は、NZの戦略的産業の生産性改善として現れると期待されよう。NZでは主産業が農 業関係である点は、ここ15年間変わっていない。1999年の輸出でも約6割は農産物で ある。しかし、現在のところ農業や他の産業で、行革後の研究成果を明確に反映する デ−タは入手できていないが、前述のEastonの指摘のように、輸出産業の生産性が伸 びていないとすれば、収入増加、雇用創出、外貨獲得といった基準で定義される経済 的利益が、研究業績に相関して達成されているのか疑問が残る。そもそも、NZの主産 業が農業関係であり比較的小規模であるとすれば、それを基幹産業とした経済戦略が 目を見はるような発展をもたらすであろうか。その見通しが小さいとすれば、若い頭 脳の流出や基礎研究の存続を危うくするまでの犠牲を払うことは正当化されるであろ うか。いずれにせよ、この問いに対する明確な回答は、今後のさらなる情報収集・解 析と時の経過を待たねばならない。

3.人間を経済的存在とのみ定義することの含意(implications)

CRIの1つであるNIWAの年次報告で、冒頭の所長の挨拶文はその年度の収入が支出を 大幅に超え、配当が何%であると誇らしそうな書き出しである。研究は知的生産活動 であり、研究者はそれにかかわる生産者として位置づけられている。生産活動の指導 理念は「生産性」と「効率性」である。それらはまた実際の経済指標としても定義さ れている。たとえば、生産性は、生産者(科学者・技術者)当りの収入である。それ 故、研究すなわち生産活動は生産性と効率性を高め、より大きな利益をあげるという 明瞭な目標を持っている。このように研究を利益を追求する生産活動と定義すること は、当然の結果(corollary)として以下の影響をもたらす。

第1に、それはカテゴリカルに生産性や効率性で定義し難い研究、すなわち基礎研究 の排除を余儀なくする。基礎研究は消滅するか、別箇のカテゴリ−の基金を設立し、 生産とは無関係な評価不可能な行為への対応として拠出をせざるを得ない。さらに、 応用研究であっても、長期の展望にもとづき初めてその利益が認められる戦略的研究 は軽視され、短期間に利益が見込める研究が「生産活動」として優先されるようにな る。また社会にとって重要であっても、利の薄い研究(たとえば環境研究はほとんど これに属する)は後回しにされる。

第2に、生産者としての研究者の選別は、その「生産性」に基づいて行われるが、そ れは研究者の流動性を高める(たとえばNZからの帰国直後、報告者の1人は転職の依 頼を情報提供者の1人から受けている)と同時に、少数の確立された研究者を除き、 研究者、特に過去に実績のない若手研究者を不安にすることが多い。この状態は競争 を促進し生産性を高める場合もあるが、同時に情報の囲い込みを促進させ、競争者間 の協力を抑制する。また不安定で競争の激しい環境のわりには研究者の処遇は一般企 業ほどには恵まれていないため、研究は通常の優秀な若者にとって選択しにくい分野 になる。

第3に、社会の存続を目指す戦略指針としての倫理という根本的な見地からは、社会 を構成する人間を生産性だけで選別するのは危険なことである。このことは歴史的経 験としても明瞭である。人間はその生産年齢を超えると生産活動から身を引き、福 祉、医療などの社会的サ−ビスを受ける。生産年齢を過ぎた者や病人が社会的サ−ビ スを受けるのは、歴史を通じてどの文化においても当然視されてきた。社会が、出産 から死に至る様々な段階にある人間によって構成される以上、このことは倫理的(生 存戦略的)正当性を持つと知覚されてきた。利己的経済主体としてのみ人間を定義す ることが、この生存戦略の視点から見ても正当化しがたいのは、もし社会的サ−ビス を次世代から受けられないとの認識が一般になるならば、出産・育児などの労をとる 意味が極めて小さくなるであろうこと、また現存する世代間において、生産世代と非 生産段階に入った世代との間に所得や資源の配分をめぐって争いが生ずるであろうこ と(日本においてもそのような現象は起こりつつある)からも推察されよう。それの みか、徹底した利己的立場からは、生産性のない存在は社会から抹殺した方が社会の 健全性を保つ意味で好ましい、という論理が現実になる可能性がある。ナチスドイツ が、精神病、痴呆、知力障害者を大規模に抹殺した事実は、その論理が現実に力を持 ち得る歴史上の証言である。

最後に、地球という閉鎖系の場において、利己的利益追求を無条件に容認することの 危険があげられる。それは自己と他者、自己と環境を構成するもろもろの事物との関 係性の無視に連なる危険である。それを「心の荒廃」と呼ぶ人もいる58。NZの大 学生は、高くなる一方の授業料を支払う理由として、大学は卒業後の収入を増やす目 的で学生が利用する施設であり、それを利用するかしないかは個人の自由である、そ れ故、もしそれを利用するならば受益者負担の原則を守る義務が生じると説明されて いる。大学進学の意義がこのように限定されたことは、高等教育のひとつの役割であ る、知的好奇心にもとづく様々な方向への探究の道は閉ざされる可能性を大きくして いる。

ここで、なぜ一方向のみならず多様な方向への探究が必要なのかについて、考察を加 えておこう。それは、人間は人間をも含む自然・環境・世界において無数の調和関係 が成立するとき、初めて生存可能だからである。そのような関係性の解明は人間存続 の基本的営為の一つでなければならない。たとえば環境科学でますます明らかになり つつある基本的事実があるが、それは一つの事象は他の全ての事象と全方向的な関係 で結びついているという相互依存の原則である。これは縁起の理法( pratitya-samutpada)として古くから仏教で説かれていたものである。地球温暖化は その格好の具体例であるが、その場合には炭酸ガスを放出する加害者は同時に被害者 であり、被害者は加害者であるという関係が成立している。この関係性の無視がすな わち「荒廃」である。この荒廃がもたらす悲惨な状況が具現化した第二次世界大戦に ついて、フランツ・カフカによる鋭敏な指摘がある。

「私たちの、人間の分を超えた貧欲と虚栄、私たちの不遜な権力意思のなせる業で す。私たちは本当の価値ではないところの価値をもとめてあがいています。そして、 私たち人間の全存在が結びついているさまざまなものを、無思慮にも破壊するので す。これは錯乱であり、そのため私たちは泥にまみれているのです。」59)

4.NZ行革の報道のされ方は適切だったか

1)諸外国での報道姿勢の変化

NZ行革に関する報道については、OECDのみならず、エコノミスト、ファイナンシャル タイムズ、ウォ−ルストリ−ト・ジャ−ナル、ム−ディズ投資家サ−ビスなどの経済 専門紙、あるいはタイムズなどの多くの一般紙の報道姿勢が、当初からきわめて好意 的であることが特徴ともいえる。しかし、行革後の経済実績の低迷が続き社会が蒙っ た犠牲が深刻になると、隣国オ−ストラリアでの報道では「ニュ−ジ−ランド病」な どという皮肉な表現が現れてくる66。1994年春には、英国インディペンデント紙 は、「福祉を止めたらなにが起こる」という見出しの記事を掲載している59。「 NZ経済は強化された。しかし、そこには暗い側面がある。国民の7人に1人は貧困レ ベル以下である。史上かつてない数の人が収監されている。警官が通りを警護する。 慈善のフ−ドバンク行列がつくられる。」

こういった社会の苦悩や貧しい地域社会の窮状の数を列挙した後、記事をこう締め括 っている。「ここでは何かかけがえのないものが既に失われたという感じがある。NZ は40年間にわたり、その国民が恐怖や窮乏のない市民社会を築こうと試みてきた。そ の事業は今や消え去った。その後で残っているのは、各人それぞれうまくやって金持 ちになれという漠たるかけ声だけである。」61)

2)日本での報道

日本でもNZ行革は、好意的というより日本が見習うべきお手本として紹介されてき た。それは高齢化社会を控え、財政赤字の累積が悪化している日本でも、NZに習って 規制を除き金融や生産セクタ−を効率化すれば、痛みがたとえ伴ったとしても、きっ と経済状況は改善されるという趣旨である。しかし、それらの報道に通底する態度 は、改革を行う側の主張の紹介に止まり、改革により犠牲を強いられた社会層につい ての「直接的な」取材は見られないことである。3つの例を紹介しよう。

例1. 1995年12月24日付の朝日新聞に、駐日NZ大使M.ウィヴァ−ズへのインタビュ −記事が「政権、痛み耐え改革貫く」という見出しで掲載された。その前書きは、以 下の如く同国の行革に好意的なものであった62。「ニュ−ジ−ランドの経済改革 に日本の政財界から熱い視線が注がれている。一九八四年から始めた改革の柱は、手 厚かった保護と規制の撤廃。外資に門戸を開き、許認可を極力なくし、中央の官僚を 半減させた。10年の苦闘が実って経済は回復、先進国の中でいまや年6%(94年)の 高成長を誇る優等生だ。人口350万人。小さな国の大改革は規制大国日本の手本とな るか。(渡辺 灯@法W

この記事では、NZの市場原理主義に基づく行革の内容(規制緩和、補助金の廃止、外 資の産業への参入自由化、中央省庁の再編縮小、7万6000人いた公務員を3万6000人 に減らしたこと)のさわりをまとめた後、大使の話を紹介している。大使は行革前に 比べサ−ビスがよくなり、料金も安くなった例として「電話を引くのに改革前は平均 三ヶ月も待たされたが、いまは一日以内に引ける。料金も二、三割下がった」と述 べ、運輸省の3000人の職員がわずか60人に減ったなどの事例をあげ、最後は「痛みが 先で恩恵は後からくる....。産業の競争力の維持こそが雇用の機会を生み、結局 は弱者の保護につながる(下線は報告者による、以下おなじ)」と垂訓している62

この記事を読んだNZ在住26年の河内洋祐は、1996年3月18日の彼の友人にあてた手紙 で「....12月24日の紙面にそのインタビュ−がのっているのを見つけました。お かしなことに、その内容は殆ど誤りです。朝日の記者が全く誤解しているのでなけれ ば、これはウィ−バ−ズ氏が故意に誤った情報を伝えているとしか思えません。残念 なことに、この内容に反論するには時期を失しています....」と書き、インタビ ュ−のコピ−を同封している63

彼によれば「電話を引くのに改革前は三ヶ月かかった」は事実に反し、1967年から 1974年までNZで6回引っ越したのに、いずれの時も電話は長くても3日で引けた。 「料金は二、三割下がった」は逆であって、テレコム・ニュ−ジ−ランドの家庭用電 話の基本料金は、数年前までは2カ月に39.16ドルであったが、その後毎月39.16ドル に値上がりし、1996年になり40.39ドルに値上がりしている。もし値下げというのな ら業務用電話ではないか。テレコム(アメリカのベル・テレフォンに買収されてい る)が史上最高の黒字決算になったのは、従業員数割を首切り、家庭用電話の2倍の 値上げによるものだという。(注:別の資料によれば、テレコムの業務用電話料金は 1988年3月の89.38ドルから1991年1月の77.87ドルに値下げされた。だが、家庭用料 金は18.23ドルから28.96ドルに値上げされた。また、人員削減は1987年の24,500人か ら1991年には14,925人と約35%が整理され、1991年の税引き後の収益は3億3200万ド ルで前年度より約30%増収であった64。)

また彼は、多くのNZの人々が抱いている国営事業を外国資本に売却してしまったこと への危惧を、以下のように代弁している。「通信事業は現在アメリカのベル・テレフ ォンの所有になりました。鉄道はアメリカのウィスコンシン鉄道、郵便貯金はオ−ス トラリアの銀行の所有です。従ってもうけは全部外国にいってしまいます。国民は、 ?外国企業である、?私企業であるという二重の制約によってその経営について全く 発言権がありません。交通通信を外国におさえられているのは安全保障上どんなもの でしょうか。大使のいうような素晴らしいことなのでしょうか....。」

朝日の取材は大使の主張をそのまま紹介しているのであろうか、大使から提供された 情報の「ウラ」をとる、つまり裏付け調査を全くやらなかったのであろうか。激しい 改革を断行するときには、必ず利を得る者と犠牲を払う者が現れる。その両者から情 報を得る労を取らずして、(日本でも行革議論がされている際は特に)事情を伝える プロフェッショナル・ジャ−ナリストとしての慎重さは十分であったろうか。たとえ ば、犠牲を払った側について、平松はその著書『ニュ−ジ−ランドの環境保護』でこ う述べている65

「....わけの分からないままに、行政改革は非常な速さで実行された。それにと もなう国民の苦痛も想像を絶する。たとえば、インタ−シティ−バスの民営化では、 一夜にしてほとんどの運転手が転職を余儀なくされたという。また、やめさせられた 公務員には、退職金に一、二年の賃金相当額が支給されるだけであった。失業率は 91、92年に10%を超えた。」つまり朝日の取材は「痛み耐え改革貫く」の「痛み」に ついて触れないことにより、現実から乖離した「チョウチン記事」になっている。

筆者が目にしたかぎり、日本のマスメディアに掲載されたNZ行革についての記事は、 いずれも改革の実行者か賛同者あるいは改革により利を得ている者から情報を提供さ れており、犠牲になった弱者(女性、老人、マオリなど)の取材はない。特に、「産 業の競争力維持こそが....弱者の保護につながる」と大使が主張しているなら ば、その弱者の状況を調べることは、報道の公正さを守るためにも必要不可欠な条件 になる。しかも現実の経過としては、1999年の時点でもフ−ドバンクの需要が増加し ている事実が物語るように、「弱者の保護」はないままにNZの経済改革は推移してい る。

例2. これは、1997年春の朝日新聞の早房長治編集委員による「主張・解説」であ る。その前口上は以下のごとく啓蒙の意欲にあふれたものである66

「ニュ−ジ−ランドは1984年から大胆な行政改革を断行し、大きな成果を上げた。崩 壊寸前だった経済は世界一ともいわれる国際競争力を獲得し、毎年同国総生産( GDP)の一〇%近かった財政赤字は約三%の黒字に転換、累積赤字もほとんど消え た。「『非効率』の代名詞」でもあった国営企業、国営事業は大部分民営化されて優 良会社に変わった。だが、日本では、霞ヶ関官僚を中心に「人口360万人の小国の例 は日本のような大国の参考にならない」という意見が多い。私はそうは思わない。小 国だからこそ「歴史的実験」が可能で、そこから学ぶものは日本にも多い。現地調査 の結果から、「七つの教訓」を紹介する。」というものである。

教訓の第1は、NZの「大改革」では労働党・国民党の政治家のみならず、大蔵省など の官僚たちが推進役を買って出ている。日本の行革について、バ−チ蔵相の「日本の 官僚....は危機感が薄いからではないか」という批判を紹介した後、「.... 日本の大蔵官僚は自分の胸に手を当てて、危機感を計ってみる必要があると思う」と いうものである。

第2の教訓は、行革は全面的かつ迅速に進めるべきだということである。1984年に行 革に踏みきったロンギ前首相は「反対派をどう説得したか」という質問に対し「説得 なんかしない。彼らを殺したんだ(I killed them)」と答えている。

第3の教訓は、NZでは契約により政治家は「雇う人」、官僚は「雇われる人」にな り、政治家の優位を確定している。「行革は、政治家が官僚に取り入れない決意を固 めることから始まる」、というものである。

別の教訓もある。それは福祉、医療、教育をめぐる論争で、政府が自らの負担金を抑 える手段として、学校や医療機関の独立会計制を導入したことである。しかし事実 は、福祉の縮小として1991年に、失業手当、生活保護手当などを約20%削ってからホ −ムレスが急増したことは、行革が依拠する市場原理では扱いがたいことを示してい る。

最後は、国民の支持が得られなくともやるべきことは断行するという原理主義の教訓 である。ところが、1984年来、行革を急ピッチで進めた労働党は1987年の総選挙で辛 勝したものの、1990年には大敗した。行革を引き継いだ国民党政権は1993年に辛勝、 1996年の総選挙では過半数を大きく割り、連立政権で政権を保っている状態である。 しかし、ロンギ前首相はNZを訪れた橋本首相(当時)に次のような言葉を贈った。 「高い政治的なコストを乗り越えなくては行革は出来ません。墓石に書けることを断 固実行する覚悟が必要です。そうすれば一時的に批判されても、将来、きっと人々か ら慕われるようになります。」

この朝日新聞の記事は、ホ−ムレスの人たちが無料給食を受けている写真を載せてお り、社会的コストが存在することも紹介しているが、NZの行革が「大きな成果を上げ た」とし、経済成果についても「世界一ともいわれる国際競争力を獲得した」という のは現実とはかけ離れた表現としか考えにくい。行革を行ったNZ政権が自国の経済指 標よりも、市場原理主義エコノミストたちにより操作される信用格付けや国際競争力 スケ−ル(例えば、IMO/世界経済フォ−ラムやム−ディズ)での評価を引用して、そ の経済政策が正しいことを印象付けようとの指摘もある67。 事実、これらの機 関は市場原理というイデオロギ−を標榜するあまり、トヨタが終身雇用を行っている ことにより同社の格を引き下げたことは我々の記憶に新しい。

しかもこの記事では、労働・国民両党が行革を断行することによりいずれも国民の支 持を失っていることは明らかであったにもかかわらず、有権者がどれほど強く行革に 反対しているのかは伝わってこない。有権者は、従来の小選挙区制度を続ける限り は、労働・国民のいずれかの党が政権を取らざるを得ないことに我慢できず、選挙制 度そのものを変革したのだった。比例代表制併用選挙では過半数の議席を一政党で取 ることは困難なため、連立政権になる可能性が大きくなり、行革のスピ−ドは鈍くな る。そして前述のとおり、1996年の比例代表制による選挙では、実に88%という日本 では考えられない高投票率で、労働・国民両党のいずれもが過半数を獲ることを拒否 したのである。

たとえ優れた政策であっても、選挙に現れた民意を汲み上げそれに基づいた政策を実 施するのが民主政治である。NZでは、労働党は民意に問うことなしに行革を電撃的に 断行し国民の支持を失った。行革を引き継いだ国民党も支持されず、結局は両党に政 権を与えてきた選挙制度さえ否定された。この政治的事実を前にして、いまだに強弁 するロンギ氏の言葉を朝日新聞は称讃するかのように、「教訓」として紹介してい る。

例3. 日本の政治家によるNZ行革の紹介もある68。これは、1996年に春山田 宏、中田宏、長浜博之の3議員がNZを訪れ、政治家、官僚、企業人などにインタビュ −した報告である。総勢50人以上と会っているが、行革のコストを払わされた人は含 まれていない。この報告は上記2例と同様、規制や補助金を撤廃し、国有企業を民営 化し競争原理を導入したことにより効率化されたこと、経済も立ち直ってきたことな ど色々の事例を紹介している。

「....こうした統計面の数字以上に重要なことは、NZ国民の生活の質というもの が向上したことではないだろうか。国が行っていた電話事業は民営化され、改革以前 だと電話を一本引くのに七週間かかった。それが改革後は、わずか一日しかかからな くなったのだ。」69)

「....独占の撤廃後には、電話料金も下がり、87年に比べると、国際電話料金、 国内電話料金とも約55%下がっている。」70)

この報告は、1984年に労働党が政権を取った時、行政改革後については全く言及して いないことにも触れている。徹底した行革断行はNZ国民にとって不意をつかれること であったことを窺わせる。

「....だが、この選挙は、強い規制を維持しようとする国民党に対し、大胆な改 革の公約を掲げて労働党がその実施を国民に訴えたというような戦いではなかっ た。....行財政改革の公約どころか、行革自体は選挙の争点にすらならなかっ た。71」最後に同報告は行革の決意表明で終わっている。「ニュ−ジ−ランドは厳 しい改革の時期を過ごしたが、それを乗り切った今、課題はなを残っているにして も、前途に広がっているのは大きな可能性である....。何としても改革は断行し なければならない。」

以上の3つの事例に共通する姿勢は、与えられる情報の信憑性を確かめず、そのまま 受け入れて疑いを挿まないという「純真素朴さ」である。烏を鷺と言いくるめること に、欧米の政治家がいかに熟達しているかに配慮した形跡が全く認められない72。もしNZ行革に習って日本においても行革を進めようとするのであれば、NZのプラ スの側面とマイナスの側面ついて冷静に情報を蒐集し検討することは、オピニオンリ ーダーとしての新聞や、実行者としての政治家が、国民に対して果たすべき最低の責 任であろう。その責任感の欠如が行革という大きな痛みを伴う事業について、痛みを 受けた側からの取材の不在として現れているのではなかろうか。

NZの経済改革が成功しなかったことはOECDの1999年報告でさえ認めている。昨年政権 を取ったヘレン・クラ−ク首相は市場原理に反抗する動きを示しているとも伝えられ る73。日本はこのような事実を無視してNZの軌を踏もうとしているのであろう か。

VI.まとめ

NZの行政改革は規制や補助金を撤廃し、教育、医療、研究を含む公共事業を民営化 し、市場原理に基づく競争を行うならば、効率的に生産性を高め競争力のついた企業 が残り、そして結果的には弱者も恩恵を受けるという論理で断行された。私たちは主 として行革の高等教育と研究に及ぼす影響を見る意図を抱いていたが、文化人類学者 ル−ス・ベネディクトが指摘したとおり、一つの社会事象は他の社会事象と分かちが たく関連しているため、経済・社会・政治・報道などの側面にも触れざるを得なかっ た。現時点では以下の暫定的結論が妥当と思われる。

1.NZの行革は、その思想的根拠となる新古典派理論に忠実に、人間を利己的経済主 体と定義し、その競争の効率化を目的とする改革である。

2.行革の経済への影響は、行革実施15年間の全般的評価としては、とうてい成功し たとはいいがたい。

3.社会的コストは、所得格差の拡大と貧困層の増加、失業率の上昇、犯罪件数の増 加、共同体の崩壊などである。

4.高等教育は、自己利益追求の一手段と定義されたため、大学生における経済的利 益を追求する傾向が顕著になり、科学研究を含め経済的利益とは関係の薄い分野の衰 退する可能性が憂慮されている。また、利用者負担の原則が適用されたため大学生の 経済的負担が増え、負債の支払い条件が厳しく、さらに国内の労働市場が狭いことも あり、若者の国外流出が増えていると思われる。

5.教官は大学生を集めることが評価につながるため、教育に熱心になったという見 解もあり、研究の余裕がなくなったという指摘もある。

6.研究は、資金配分において、短期間に末端利用者の経済的利益が見込める応用研 究が重視されている。基礎研究や長期的な展望の中で初めて利益が見込まれる研究へ の資金配分は、行革前に比べて減少した。

7.国立研究機関は10のCRIとして分割企業化され、企業会計を施行した。このため 採算がとれず破産した研究所もある。企業内容の優劣は収益、支出、配当、生産性な どの指標により表現されるようになったが、研究成果の質は末端利用者によって評価 されることになる。今回はもっとも成功しているの研究所を訪れるにとどまった。

8.NZの行革については、実状より楽天的・好意的にする報道の偏りが多く、その多 くは情報源の偏りと無批判に情報を信用する姿勢、さらに同国の社会文化情況に対す る理解不足に由来すると思われる。

9.有権者の政治的意思表示から見るかぎりは、NZの行革は、同国民の支持を得なか ったものと結論される。

文献

(*は添付資料、「私信」はすべてインタビュ−のことである)

 河内洋祐.ニュージーランド便り(5)NZ地質研究所の解体再編成.地質ニュ− ス,1992; No. 459: 26-29

 河内洋祐.NZの経済改革と科学研究.日本の科学者,1996; 31: 43-47

 *河内洋祐.草の根から見たNZの行政改革,NZ研究,1997; 4: 7-15

 Macer,D 私信

 Kelsey, J. “Economic Fundamentalism” p. 20, 1995, Pluto Press, Loudon

 ibid pp. 23-24

 ibid pp. 33-38

 OECD Economic Surveys 1999, NZ pp. 124-132

 平松紘.NZの環境保護:「楽園」と「行革」を問う.pp. 93-97 1999. 信山社

10 City Voice, 15 Dec. 1994

11 State Services Commission, Paper to the Taskforce on Capital Changing of Tertiary Institutions, “Governance of Tertiary Institutions 18 Aug. 1992

12 NIWA Annual Report 1999

13 文献2,p. 45

14 文献5,p. 85

15 Markus, H. R. and Kitayama, S. Culture and the Self: Implications for cognition, emotion, and motivation. Psychological Review, 1991; 98: 224-258

16 Ohi, G. Ethical orientations and dignified death. Psychiatry and Clinical Neurosciences, 1995; 49: Suppl. 1: 155-159

17 宇沢弘文.宇沢弘文著作集?:社会的共通資本と社会的費用,pp. 86-102, 1994, 岩波書店

18 文献8,p. 129

19 同上,p. 132

20 MoRST配布資料「NZの研究・科学・技術システム一覧表」(1999)

21 文献2,pp. 44-47

22 Matthew, A., Rys, G 私信

23 文献18,”Totals are GST inclusive”

24 文献3,pp. 11-12

25 Black, P., Kelsey, J. 私信

26 文献2,pp. 43-44

27 Anderson, R. 私信

28 Mathews, R. 私信

29 Annual Report of Massey University 1999

30 Kelsey, J. 私信

31 Black,P. 私信

32 Black, P., Kelsey, J. 私信

33 文献5,pp338-339

34 たとえば早稲田大学客員教授 K. Grossberg との私信, D.H. Paal, NZ is backing away from the global marketplace. International Herald Tribune, 8 Aug.2000

35 Anderson, R. 私信

36 Macer, D. Kjellstrom, T. 私信

37 Kjellstrom, T. 私信

38 Black, P. 私信

39 Anderson, R. 私信

40 Jordan, B. 私信

41 Mathews, A. 私信

42 Rys, G. 私信

43 1999年9月20日オ−ストラリア連邦議会下院産業・科学・資源常設委員会の報告 書「オ−ストラリアのR&Dに対する公共政策変革の影響」1999年9月20日。

44 Black, P. 私信. 調査結果を送ってくれるよう依頼したが未だに届いていな い。

45 Kjellstorm, T., Black, P., Chapman, P., Crampton, P., Woodward, A.,

46 Easton, B. “Why has NZ’s economic performance been so disappointing?” Paper for the Economic and Social Research Trust of NZ, Wellington, 1997

47 Kelsey, J. Reclaiming the Future pp. 358-359に引用。Bridget Williams Books, Wellington NZ, 1999

48 Stastics NZ, Key Stastics: May 1999, Wellington p. 34

49 文献8,pp. 25-26

50 同上 p. 114

51 文献47,pp. 367-371

52 Watergrave, C. Stuaut, S. “An Analysis of the Consumer Behavior of Beneficiaries” Report to the Social Transformation Council, Auglican Diocese of Wellington, 1996

53 NZ Herald, 23 April 1999

54 文献2,p. 43

55 文献9,p. 100

56 文献5,pp. 303-305

57 NZ Herald, 4 Jan. 1992

58 Kelsey, J. 私信

59 ヤノ−ホ著「カフカとの対話」

60 文献5,p9

61 Independent on Sunday 13 Mar. 1994

62 渡辺.「この人にこのテ−マ」欄,朝日新聞1995年12月24日

63 河内洋祐より青木良英への手紙1996年3月18日付

64 文献5, pp. 122-123

65 文献9,p. 101

66 早房長治,行革・NZに学ぶ.朝日新聞1997年5月18日

68 山田宏・中田宏・長浜博行.ニュ−ジ−ランド行革物語:国家を民営した国, PHP研究所1996

69 文献68, p.56

70 同上 p.126

71 同上  p34

72 たとえばクリントン大統領がモニカ・リュウィンスキ−と持った「不適切な関 係」において、彼は性行為があったことを否定している。それは彼の定義によれば、 オ−ラルセックスは性行為(sexual behavior)に含まれないからである。”Clinton vows he will stay and fight” International Herald Tribune 12-13 Sept.1998 

73 文献34のIHT記事;またたとえば、2000年春提出のクラ−ク政権施政方針は、高 等教育市場での「競争モデル」を放棄している。高等教育委員会を設立し、「協調・ 協力的」高等教育分野を再建する。 Newzgram March 2000

図1(==>本文)
図2(==>本文)
図3(==>本文)
図4(==>本文)
図5(==>本文)