著者の承諾を得て転載。著者は2000年9月に「大学に卒業は無用ーー学校教育活性化のための提案」を出版し新たに議論を呼びかけている。
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大阪市立大学「経済学雑誌」第73巻第4号(1975.10.25) p64-74 時論

大学教育に「卒業」という制度は必要か

藤田 整


1968年〜70年にかけて,わが国の諸大学を一巡した大学紛争は,いま表面的には沈静している。しかし大学紛争にはそれ相当の根拠かあったと考えるのが適当であり,そうとすれは,紛争の過程において提起された諸問題が何らかの方法によって解決されないかぎり,表面化するか内攻するかはともかく,紛争はいずれ再発せざるを得ないというのが社会的力学というものであろう。もっとも70年代にはいると,大学紛争に刺激されたともみられる文部省主導の改革,たとえば省令「大学設置基準」の改訂によって,大学間における単位の互換制度であるとか,さらに学部以外の基本組織の設置,授業科目の区分の弾カ化などが認められた.大学自体の努カによっても,たとえば講義履修方法の改善などは,かなりの大学において実施されているようである.けれとも大学教育にたいする現代杜会の諸要求にこたえるためには,まだまだ改善されるべき点はおおいのであり,今後とも大学関係者はいっそうの努力を注がなければならない.

なかでも見逃がすことのできない重要な問題のひとつに,ますます激化しつつあるかにみえる大学への受験競争がある。これにかんする一般の論議も,毎年,受験期になると高揚し,新学年度がはじまるとひとまず沈静するというのが数年来のパターンであった。ところが今年は,新学年度にはいっても,散発的とはいえ,この種の論議が新聞の投書面や学芸欄などをにぎわしている。これは,この問題について,いよいよ何か根本的な手をうたねばならない時期にきているということの徴候ででもあるのだろうか、受験地獄が問題になる時に,つねに登場してくる有力な現状弁護論は,人生には競争はつきものであり,競争こそ人類社会を向上させる動力であるとするものである.そしてそれは,この「善なる競争」において勝利者の位置につくためには,小学生時代から学習塾にかよわせるという現代社会の一般的風潮もまた止むをえないとして許容しようとするのである。

この種の議論は一面の真理をふくむがゆえに強カであり,新聞の投書面における読者間の論争などは、通常、この種の弁護論の登場によって,その1サイクルをおえるということがおおい。しかし,わが国における現在の受験競争は,この種の一般論によって,そのすべてを免罪しきれないところに,実はその真の問題が伏在しているのだというととが認識されなければならない.

ここでは受験競争の激化という問題を,大学教育における「卒業」という制度との関連において検討してみたい.われわれの問題意識においては,わが国の大学教育における卒業制度は,現在,かなりに商業化または空洞化しており,社会における最高の教育・研究機関という大学本来の使命からみて逸脱している点がおおいといわねばならない。大学における卒業制度,卒業証書の授与という制度が,不当な受験競争激化の非常におおきい原因をなしているということは,ほとんど説明の必要のないところであろう.この事態を改善するために,大学は,個々の講義の履修についての成績を評価し,単位を認定するだけに止どめて,現在おこなっている卒業認定というような包括的制度は,大学教育自体の見地からはほとんど無意味な形骸化したものであるから,それは廃止したほうが現代社会における大学の使命を遂行するうえによりふさわしい.そしてこのような措置は,現在みられる受験競争の不必要な激化,それにまつわる青少年の不幸をも,またしだいに緩和させるにいたるであろうというのが小論の主旨である。以下,もうすこし詳しく,この論旨を説明してみたい.

II

「入るに難かしく,出るにやすい」のが、わが国の大学の特徴であるといわれる.これは,わが国が基本的には単一民族より成る社会であり,そして義理人情をきわあて重視する社会であるということと無縁ではないであろう。それどころか正確には,わが国の大学もまた義理人情社会の一環として,まさに,それ自身がミクロの義理人情社会そのものなのである.外部の人間にくらべて,内部のものにたいして,きわめてアマイのが義理人情社会の特徴のひとつである.大学という義理人情社会の一員になるために,入学試験は国際的水準からみても「厳正に」実施されるけれども,いったん入学を許可された以上は,その後の単位認定試験はきわめてゆるやかなものとなってしまう。そしで修業年限とよばれる一定の年期(通常4年)さえ無事に勤めあげれは,ほとんと勉強しなくても卒業は一般に容易であり,事実,学業成績不良によって卒業不能におちいったというような事例はほとんと無いのではなかろうか.

入学後の単位認定試験が一般にゆるやかであるなかでも、卒業年度における単位認定試験はとりわけゆるやかである.すでに就職先のきまっている最終年次生にとって,現在のように主として就職のためのパスポートとしてしか意味のない大学教育は,もはや関わりのないものであるから,かれらは普通はそれ以上の勉学の意欲をもたない,したがって卒業年度の単位認定試験については,勉強不熱心のため,不合格点にしか値しないものがかなりに多いのが実情であるけれども,卒業年次生にたいしては実際に不合格点がつけられることのほとんど無いのもまた実情である.なぜなら,たとえ,かれらに不合格点をあたえ,そのことによって卒業単位不足,卒業不能,就職を棒にふらせるという事態をもたらしてみたところで,そこには実質的にどういう教育効果があるのだろうか.わが杜会の現状から判断して,一般には,その落第生にとっても,また社会にとっても,益よりも害のほうがはるかに大きいのではなかろうか.したがって幸にも,わが国の大学においては,卒業年次の学生にたいしては単位認定試験はとりわけ極めてゆるやかに実施され,真実には不合格でも,現実には合格点があたえられることがおおく,したがって形式的には正真正銘の大学卒業生として社会に通用することになっている.このように大学卒業制度の空洞化は,すでにわが国において広範に存在しており,大学のいっそうの大衆化の傾向にともない,さらにますます進行するであろうというのが現状である。

こういう現状にたいして,欧米の大学におけるように,学年末試験を厳重に実施せよという提案が時々おこなわれる.すなわち欧米の大学においては,わが国にくらべると入学試験への合格はやさしくても,入学後には毎年,厳重な試験をおこなって,毎年毎年,本合格者は退学を命ぜられる.したがって卒業時には,入学時にくらべて学生数が1/2に減少しているということも稀ではない.わが国においても,このように厳しい大学教育方式を実施すべきである云々,というような提案である.

しかし私見によれば,このようなハードな方法による大学教育の実質的内容の確保は,わが義理人情杜会の伝統になじまないのであり,完全に実行不可能であるとおもう.だから,この種の提案は,つねに単なる,そして的はずれのシッタ激励におわるのが常であった.しかし大学教育の実質的内容をすこしでも回復するという課題はきわめて重要であるから,わが社会においては,欧米社会におけるようなハードな方法とは別の適当な方法が真剣に探求されなければならない.

III

大学は教育・研究機関であるという原点にもどろう.このさい,そういう大学の基本的性格を純化しよう.そうすることが同時に,現在の受験地獄を緩和させる道でもあるというのが,われわれの提案の根本である.

現在,文部省令「大学設置基準」第32条において,大学卒業に必要な最低単位は124単位と規定され,これに従って各大学,そして各学部において,それぞれ一定単位の修得が当該学部の卒業のために必要であるときめられている.われわれの提案は,具体的には,学生にたいして「卒業」であるという認定を大学がおこなうのを止めようということである.大学が,卒業のために何単位が必要であると厳密に決めなくても,ぞれぞれの求人先が,それぞれ当方の就職希望者には受験資格として何単位の修得が必要であるということを示せば,それ以上の問題はないのである.学生は自己の将来の志望にあわせて,必要な単位だけを,現在よりはいっそう身をいれて修得するようになれば,たとえ卒業制度が廃止されたとしても,大学教育の水準は現在より低下するどころか,むしろかえって向上することは疑いない.この場合わが国は,自律的社会というよりも,むしろ他律的社会であるという性格をもつことが忘れられてはならない.

求人側が必要な修得単位数をそれぞれ提示するということは何ら異常なことではなく,落ちついて検討してみると,すでにわが国において,かなり広範におこなわれていることなのである.たとえば国家公務員採用上級試験においては,その受験資格は「大学卒業程度」となっており,「大学卒業」とはなっていない.つまり求人側は「卒業」というハードな形ではなく,「卒業程度」というソフトな形で,求職者にたいしてその要求する学力の程度,いいかえると修得単位数をしめしているのである.また最近おおくの受験者が殺到する司法試験においても事情はおなじである.司法試験には特定の受験資格はないけれども,関係大学卒業者には一次試験免除の特典をあたえるという形で,求人側の要求する学力,すなわち修得単位数を提示しているのである.さらに地方公務負のばあいには事態はいっそう進んでおり,その上級職採用試験の受験資格はおおむね年齢制限だけで,東京都,大阪府なと,学歴不問が一般的となっている。ちなみに,この点,日頃は何かとお役所仕事の保守性を皮肉っている財界が,こと採用試験についてはかえって超保守的で,あいかわらず「大学卒業」というレッテルを過度 に有難がっているのは何としても奇妙である。

したがって大学は,なにも「大学卒業」というようなハードな形で,しかも先にも述べたように看板に偽りのあるような形で,学生に包括的な免状をあたえなければ,その杜会的責任が果せないということはない.かえって大学とは勉強するところであるという原点にたちもとるどることこそ,大学が真にその社会的責任を果すことになりうる道なのである.しかしそうは言っても,公務員試験や司法試険のような大手の求人先は,求人組織もしっかりしているから,大学の教育内容もよく知っており,求職者にたいしてみずから必要な修得単位を提示できても,一般企業のすべてにそれを求めることはできないであろう.したがって大学は,卒業認定という制度は廃止しても,まず学生にたいする教育的配慮からも,現行の卒業認定に必要な単位数を,再検討のうえ「標準履修単位数」に切替えることになるであろう.そして現在とおなじく,講義を履修して試験に合格すれば単位をあたえる.そのうえで成績証明書は発行するけれども,卒業という制度は廃止し,したがってもちろん卒業証書もなくなる.(しかし,これが非常に頼りないというのであれば,過渡的には単位修得の成績証明書を,卒業証書の ようにやや重々しいものにするぐらいは結構であろう.)重要なことは,大学は標準履修単位をしめすだけにとどまって,もはや卒業であるとか,ないとかは決定しないということである.学生は,それぞれ自己の目的にてらして,かつ自己の責任において,当該大学における自分の勉強がひとまず完了したとおもう年度末に,大学生活の成果をしめす成績証明書をたずさえて,社会に出てゆけばよいのである.そうなれば,現在,大学卒業に必要な最短期限をしめす「修業年限」という制度は消滅し,入学試験に合格後,学生としての資格が保証される最長期限をしめす「在学年限」という制度だけが残ることになる.1)

IV

以上のような制度は,わが国における大学教育の実質的内容をたかめるために大いに役立つであろう。現行の大学制度のもとでは,いったん特定の大学に入学した以上は,どのように優秀な学生であっても,卒業証書をもらうためには,ふつう4年間はその大学に在籍しなければならない.しかし周知のように現代社会において,教育面における学生の要求はますます多様化しつつあり,とても一大学の教師陣だけで,その要求のすべてをみたすのは困難になりつつあるのが現状である.したがって,さきにも述べたように大学設置基準においても,いわゆる単位の互換制度がみとめられ,一定の条件のもとで,他大学における講義聴講も,もちろん期末試験に合格すればの話であるが,卒葉に必要な修得単位数のなかに算入されるという制度が新設された2). しかし大学院生のばあいについてはともかく,学部学生のばあいについては,近い将来,せっかくのこの制度も大規模に活用されそうにはみえない.この点われわれの提案する制度においては,制度全体がソフトであるから、このような学生の希望ははるかにスムーズにかなえられることになるであろう.すなわち,学生は,自己の在学する大学とは別に,希望する大学において,たとえば聴講生という形で希望する講義を履修し,単位を修得し,もし必要とあれば,その成績証明書をあわせて求人先に提出することになろう.なにしろ現在のように,一つの大学においてのみ,しかもそれを「卒業必要単位」というハードな形式で修得し,「卒業証書」というものを獲得しなければ,社会的に通用しないという制度は,教育の実質的内容という見地からは,ほとんど意味のないものになっているばかりか,それ以上に,かえって阻害的なものになっているのである.

大学における教育制度が,われわれの提案するように,より実質的な内容のものに変わることになれば,現在,就職のためのパスポート化している観のある大学の卒業証書をめざして,何が何でも大学へ殺到するという日本社会の気風は緩和の方向にむかうであろう.現代社会における最大の求人先である財界も,現在のように,惰性的にそして無反省に「大学卒業生」を偏愛するということは不可能となり,より実質的な採用基準を考案せざるをえなくなるだろう.現代社会における就職への道は,いずれにしろ基本的には資本制企業へとつながるにしても,そこへの道は現在のように「大学卒業」を経由する一本道ではなく,もうすこし多様な道が生まれてくるのではないか.

現在,大学卒業と大学中退とのあいだには天地の開きがあるように世間が受取り,すでに大学自体が率先して錯覚しているところに問題があるのである.両者のあいだの関係は断絶ではなく,連続にしかすぎない.また卒業制度を廃止すれば,一定期間の社会生活ののち,必要があれば何度でも,勉強のために大学にもどってくるという「生涯教育」という現代社会の要求も,よりスムーズに大学教育制度に組込めることになるであろう.

V

付記一一卒業制度廃止論をめぐる,最近の論調

大学教育における卒業制度の廃止という以上の提案は,最近ではかなりの識者によって問題とされている.もっともこの論議は,場合によっては「卒業証書廃止論」とも言われているけれども,正確にはもちろん「卒業制度廃止論」というべきである.なぜなら,現在の大学における卒業制度をそのまま残しておいて,卒業証書だけをいくら廃止しようとしてみても,それは無意味という以上に,そもそも不可能である.逆に,卒業という制度そのものが消滅すれば,それを証明する書類にしかすぎない卒業証書もまた消えてなくなるであろうことは理の当然であるからである.

生越忠氏は,最近一般にもおこなわれている大学入試制度の改革論議にふれて「大学入試の弊害を根本的に除去するためには,このさい思い切って、大学の卒業制度の廃止にふみ切る以外に方法がないと思う」3)と言われている.また同氏は,宇井純氏と共同でひらかれた公開自主講座「大学論」の席上,やはり大学入試制度との関連で「インチキな入試制度があるために,大学はどんなに制度を直そうが,どこのなにをどうしようが、絶対によくなりません.そのことを私は痛感しておりますので,いっそのこと,卒業証書をなくしてみたらどうかと,そしたら,よほとのバカじやないかぎり,いまの大学になにがしかの期待を持ってはいってくる人間はおりませんでしよう」4)と言われている.

著名な教育学者である梅根悟氏は以下のように言われる.「私は大学進学競争がはげしいのは大学の卒業証書がものをいうからであり,東大や京大その他有名一流大学の卒業証書ほとズバ抜けてものをいうからである,だから卒業証書を廃止するがいい.卒業制度を廃止するがいい,卒業なんかなくて,……学びたいだけ学べ.研究したいだけ研究してゆくところにすればいい,そうすれは今のように、別に学間がしたいわけではない,ただいい大学を卒業したというパスポートほしさに大学に入ろうとする者は減るだろうし,進学競争なんかなくなるだろう,という意見を持っており〔ます〕。……この卒業制度廃止論は私の持論です」5)と.

おなじく梅根氏は「大学大衆化がいわれる一方で,大学解体論や大学不必要論も唱えられていますが……」という質間に答えて「手をこまねいてもいられないから,和光大でもささやかな努力は続けています.たとえば,卒業式は行わない,荘厳なセレモ二一によって大学を卒業したのだということをいやがうえにも意識させるということは,古い時代の名残ですからね.大学とは,卒業によって社会的特権を得るところではなく,学びたい者が学ぶところだということを徹底させたいと思います.……しかし,和光大だけか卒業証書を出すことをやめるわけにもいかないから,卒業証書は出しながらも卒業証書を無化する,既成の大学制度を空洞化することを考えなければならない」6)と発言されている.

ただし以上の引用文においては意図的に省略したのであるけれとも,生越,梅根両氏の卒業制度廃止論においては,卒業制度の廃止ということと,「出入り自由の大学」ということがやや短絡されているきらいがあると思う。たとえば梅根氏は上記引用の省略部分において,大学とは「誰でもいつでもやって来て,……研究したいだけ研究してゆくところにすればいい」と言われている.また生越氏もおなじくさきの引月記事の別の個所において「入試そのものがなくなって,選別の論理が排除され,学びたいと思う国民大衆のだれもが,いつでも,好きなだけ学べるということにならない限り,いかなる〔入試制度〕改革も,結局は抜本的な解決策にはならず,ことによっては,新しい弊害を生むことにさえなりかねないのである」と言われている.しかし,卒業制度の廃止ということと,出入り自由の大学ということは論理的に別の意味内容をもち,たとえ卒業制度を廃止しても、それはただちに出入り自由の大学の出現をいみしない.もちろん出入り自由の大学ということは理想であるけれども,たとえ卒業制度の廃止後といえども,特定大学への入学希望者が定員をこえるかぎり,ある種の入試は残存さ せざるをえないであろう。もっともその場合,現在の入試方法およべ定員を根本的に再検討する必要があるのはもちろんである.

つぎに教育評論家の鈴木重臣氏はつぎのように言われている.「いま大衆が大学に殺到するのは,学歴のパスポートを得るためですね.ですから,大学はもう何も出さないことにして,それでも何かを勉強したいという者だけが行くようにすればいいんです.何を勉強したかということと,何が出来るかということは,全く別問題です.……とにかく,芸大を出たからゼ二のとれるビアノ弾きになれるわげでもないし,東大を出たから偉大な作家になれるものでもない.何かが出来るということは,学歴に比例するものではないことを,もう考えなきゃならない時代ですよ.いま日本人が大学に行くのは,心に見栄があるからです。学歴神話,大学神話があるんですね.こんなものは,実社会とは何の関係もありません.何が出来るかというプラグマチックな問題に目を向けるべきですよ.……明治維新のころは,士農工商という身分制度を打ち破り,機会の平等を実現するという意味で,学歴社会にも価値はありました.しかし,それが通用したのは,学歴が実力を象徴していた時代だけで,せいぜいそれは大正から昭和の初期までの話です.戦後の奇妙な大衆大学というのは,ヘンな平等意識と,大学へ行か なかった人間のあこがれというかルサンチマンの対象となってしまって,かつてのような近代的なものは何もないんです.……しかも,今の大学はみな“擬似東大”になってしまっています.そういう大学神話に乗って大衆が押し寄せるから,どんなインチキ学校でも商売になるのが現状であり,まずこれを打破しなければならないと思いますね」7)と.

大学教師である中山茂氏は「教育と職業との間に人為的にある時期で一線を画する卒業という概念に無理があるのだろう.それなら,いっそのこと卒業というものを取っ払ってしまって,教育と職業の方で相互乗り入れして、半労半学という状態にしておく方が,少なくとも青年の精神衛生上よいにちがいない.……紛争中,ある私大教師の友人は卒業をなくそうという運動を執拗につづけていた.しかしそれでは卒業証書をエサにするペテンのからくりとかげ口される大学経営が成り立つか.少なくとも一つの大学で卒業をやめたとしても,またたく間に他の競争大学企業体にいわれてしまう.大学という世俗的営造物は,社会諸勢力の相せめぐ場所であるから……云々」8)と言われている.

宗教学者の田川建三氏,また代々木ゼミ講師の野見隆介氏も,大学における卒業制度の廃止を提案している。9)

永井道堆氏は,文部大臣としての発言において,以下のように言われる.「学歴の偏重は,今日,世界的な問題である.アメリカの大学紛争のあとで,カーネギー高等教育委員会は,“何のための学位か”という報告書をだしたが,アメリカでも,学歴主義が強すぎることを問題にしている.しかし,日本では,アメリカ以上に,学歴を偏童する傾向が強いと思われる。……学歴偏重をもたらしたのは、社会であって,学校ではない.……学歴の尊重といわず,偏重というのは……学歴が,値打ちより高く,重んじられているからである.……そこから,いくつかの社会的な不都合が生まれる.第1に,大人の杜会が学歴の別によって固定しやすいために,競争がこどもの社会に,しわよせされる.受験地獄が生まれる.第2に,学校教育の内容が,学歴本位にくみたてられる傾向が強くなる.小,中,高の教育が受験本位になり,人間として,創造的に,考え,しらべ,行動する教育が弱められる.生涯にわたって,理想をもって学べ,生活する人間を育てにくい.……第3の木都合は,学歴に安住するものが多い社会は,文化や経済の変化に,有効に対応する能力に乏しいことである.咋日,化学工業の発展 を考えていたものは,今日,公害に対応しなければならぬ.……13世紀にわたって行われた中国の科挙の制は,古い型の学歴社会であった.科挙を通過した秀才は,中国の内外の変化に対する無能をさらけだすほかはなかった.学歴を偏重していると,日本社会も,変化への対応力を失うかもしれないのである.

「これからの社会は,学歴を偏量するよりも,生涯教育を重んじる方向に進むであろう。そのような社会が生きのびるであろう.日本の企業のなかには,すでに,このような考えをもつものも少なくない.より多くの記号,大学,学校,官庁も,採用や昇進にあたって,柔軟な人事を行うようになることが望ましい.わたしは,社会の,こうした変化に対応して,学校教育の方向を変えたいと思っている.受験地獄を少しでも緩和し,小,中,高の段階から,学歴をめざすよりも,生涯教育の地盤をつくるために,自分で責任をもって考え,行動する人間をつくる教育を強化したい」10)と.文部大臣としては,画期的な発言であるとおもう.

京極純一氏は,佐藤忠男氏との対談において,わが国における学歴主義発生の経過にかんし,以下のように言われている.「若者組の場合,ひとつ年上でさえあれば指導できたかというと,そうでなく,実力が効いたわけです.腕とか度量がないと年上でも幅が効かない.適塾の場合,なぜ先輩が後輩を指導できたかというと,オランダ語を読めるという実力が物差しにあるから,先輩は後輩よりたしかに卓越している.できないものは間引かれていなくなっているわけです。ところが学校になると,英語,数学,国語などの学科があり,音楽,体育などもある.そうなると,一年先に入学した人聞が,すべての教科について,一年下の人間を指導できるとは限らない.旧制の場合,中学1年と2年くらいの間ならともかく,もう少し上にいくと,下級生のほうが上級生より英語や数学……がよくできる場合が出てきます.学校という場のなかで実力の原理と入学年次という公式の秩序と二重帳薄になってしまって,無理が出る.その無理をどこで救うかというと,先生のところしかない.先生がd3年生,5年生という役割をきめて学校を管理する.そして,上級生がひとり残らず……“全校きっての秀才”であるはずはないので,上級生として,入学の年次……という学校公認の権威,公式の権威に頼るようになる.ですから文明の次元で言って,ひとつの変化がおきたと思います.いつでも腕でこいということで先輩後輩の秩序が維持できた塾の場合にくらべて,学校のほうが官僚的になって,実力の原理からずれてきたわけです.……

「学校体系が確立していく間に,新制の学校体系では“飛び級”を全然認めないというふうに学校休系のなかの年功序列の原理が強くなり,実力の原理が背景に退いていきます。そうなると,学生の側では年功序列の階段をおとなしく守って,それぞれ何年かずつ在学するほかないし,卒業証書を手にしなければひと通りの暮しもできないので,あきらめて学校体系に付合うことになり,学生も父兄も世間一般も学校休系への依存度は高くなります.その反面,世間からみれば,学校の卒業生について実力の原理か弱くなり,"お情け卒業”で次々に通ってきただけという実情になるから,学校体系のある段階を卒業したことは,満何歳になったという年齢の目印以上の意味をあまりもたなくなります.学校に対する,学力をつける場所という信頼性が低下していくわけです.依存度が高くなる反面,信頼度が低くなるというこの矛盾の実感がひろがると,どの制度にとっても,危険の徴侯ですが,現在の学校体系についても,この矛盾を世間の多くの人が感じるようになっていますから,信号が橙色になったと考えて対策を考えなければいけませんね」11)と. (1975.8.8)

筆者は,1971,73年および74年度の3年にわたって大阪市立大学経済学部の教務委員を担当し,ふつうの場合よりはふかく大学の教育面にかかわる機会をもった.小論における提案は,この期間の経験から生まれた考えのひとつである.

1)大学院生については,とくに文科系のばあい,大学院の卒業(正確には修了または単位修得といわれる)ということ自体は,現在すでにあまり意味のないことになっている.大学院生の将来にとって肝心なことは良い論文を書くことである.よい論文を書いた人物は,チャンスさえあれば,大学院入学後の年数とは無関係に,いつでも就職できる.つまり大学院段階においては,現在の学部段階におけるような「卒業制度」は.すでに,学問的にはもちろんのこと,世俗的にも意味がない。

2)個人的なことながら,筆者も15年前に,現在いわれる単位互換制度を導入すべきであるという提案をおこなったことがある(抽稿「大学の現実一一大学院学生として一一」,「思想」1960年1月号,67ページ).現在,まだ第1歩で小規模であるとはいえ,この有意義な措置が公的に実現されたのはまことに喜ばしい.

3)『朝日新関」(大阪版),1975年6月30日.

4)字井純・生越忠「大学解体論」1,亜紀書房.1975年.231ベージ.

5)梅根悟「日本の教育改革I大月書店(国民文庫818),1975年,82ページ.

6)「特集・苦難の私立大学・その3一一梅根悟・和光大学長にきく」.『朝日 ジャーナル」1975年2月21日号,15ページ.

7) 週刊新潮』1975年4月17日号,32ぺージ.

8) 中山茂「もしも卒業がなかったら」,『思想の科学』1975年2月号,15,16 ぺージ.

9) 五十嵐良堆・渡辺一衛稿「教育を問う」三一書房.1974年,45,208ぺージ.

10)永井道堆「発言:学歴偏重を捨て.生涯教育を重視せよ」.『毎日新聞」 (大阪版)1975年5月19日.

11)佐藤忠男・京極純一『学校と世間一一進学文明を超えるもの一一』中央公 論杜(中公新書388),1975年,143〜4ページ.