原書(人文書院発行 ISBN 4-409-24064-1)が絶版となったので著者の承諾を得てオンライン化(未完成)

大学に卒業は無用

●学校教育活性化のための提案

 

大阪経済法科大学長

藤 田  整


自己決定による卒業/自発的勉学意欲の構築のために

目次

  • 第1章 大学教育危機の一面とその打開策
  • 第2章 卒業制度廃止で予想される事態
    1. 同窓会はつねに健在
    2. 各大学にとって個性的な独自カリキュラム崩壊の危険はない
    3. 大学内部において(欧米なみの)厳格な試験の実施はきわめて困難
    4. 卒業制度の廃止より派生するであろう数々の利点
  • 第3章 1975年以降の卒業制度廃止にかんする論調
  • 第4章 21世紀の日本社会と教育問題
  • (付録)大学教育に「卒業」という制度は必要か
  • あとがき

  • 第1章 大学教育危機の一面とその打開策

    現在、わが国の大学教育の各面について機能不全または制度疲労が指摘されている。なかでも、すでに小学校段階より始まっている各種の入試合格のための技術主義的・暗記偏重的な訓練の過熱、他方、主としてその反動ともみられる大学入学後における勉学意欲の喪失、ないしはその著しい低下という大問題がある。本書は主として、この後者の問題を取り上げる。

    私自身の専門領域は経済学の教育・研究であるが、大学に勤務していたという職業上の義務として、例えば学生部委員、教務委員、その他など、自己の専門の枠をこえて広く一般の学生諸君と各種の交渉の機会があった。その過程においてさまざまの刺激をうけて感ずるところがあり、いまから四半世紀前の1975年に、私は「大学教育に〈卒業〉という制度は必要か」(本書の末尾に「付録」として全文再録)と題する一文を発表し、大学教育活性化のために極めて有効と思われる施策として、「大学卒業制度の廃止」を唱えたことがある。当時、すでに多少の好意的反響をいただいていたけれども、この種の制度上の大変革が直ちに社会的に受容されるはずはない。私は持論を保持しつつ、その後、沈黙をまもって今日まで問題状況の推移を見守ってきた。ところで二十数年後の現在、問題はますます深刻化し、関連状況にいっこう改善の兆しは見られないというのが私の現時点における認識である。

    既述のように現在、わが国の大学教育に生している大問題の一つに、学生の勉学意欲の著しい低下ということがあるが、このような学生におけるモチヴェイションの喪失はなぜ起こるのだろうか。大学教育が広範に普及し、進学希望者のほぼ全員にいちおう希望がかなえられる、換言すれば大学全入が現実化しつつある状況において、ほとんどすべての大学で、大なり小なり勉学意欲の喪失、またはそれに近い事態がおこっている。私は、この事態の基本的な原因は、やはり日本の社会に広範にみられる「甘えの構造」のなせるわざではないかと思っている。すなわち、この場合は所属大学への甘えという深層心理より由来するものである。たとえば、学生が思うに、本人が第一に希望する大学であったかどうかはともかく、「やれやれ教有課程の最終段階である大学に入学できた。もうこれ以上は別の学校に行く必要もなければ、入学試験の準備に苦労することもない。無事に入学し、親が授業料を払ってくれている以上、多少というより、かなり怠けていても、いずれ所定の年限が来れば、なんとか無事に卒業はさせてくれそうだし、卒業証書(学位記)も貰えるだろう。そうであれば、これ以上、何をわざわざ苦労して。勉強する必要があろうか。できるだけ楽に卒業証書をもらうのが得策である。そして僕または私はいずれ大卒者として世の中を渡ってゆくことになるだろう」というような考えを持っているのではなかろうか。

    ところで一般に周知のこととは思うが、ここで念のため「卒業制度」とはなにかを説明しておきたい。この制度は以下の二つの部分より成る。第一に、大学は、それぞれの講義の履修にたいし通常、筆記試験または別の方法による成績認定によって、4単位または2単位というように各講義について予め所定の単位をあたえる。第二に、これらの単位を合計して、現行の「大学設置基準」(文部省令第二八号)の第三十二条においては「卒業の要件は、大学に4年以上在学し、124単位以上を修得することとする」と規定されている。この条文に拘束されて、現在、日本の大学においては、合計124単位以上を取得しなければ大学卒業の証書(学位記)を授与できないことになっている。

    この124という卒業単位の各大学における認定、これを大学用語では「卒業判定」と言い、毎年、学年度末になると、最終学年、すなわち四回生について「判定会議」の名のもとに、麗々しく教授会が開催される。そして卒業希望の学生が、実際に合計124単位以上を取得しているかが各人ごとに点検されることになる。

    ところで問題は現在、本来、厳格であるべきこの行事が、かなりに形式化または空洞化しているということである。すなわち、卒業希望の最終学年生にたいする講義の単位認定が非常に甘くなりがちで、通常ならば試験の出来が悪くて不合格とすべきはずであるのに、たとえば、当該学生はすでに某社への就職内定者であるので、ここは何とか目をつぶって合格にしてほしいというような学内関係者の声におされて、やむなく合格点を与えるという羽目におちいった経験のないような教員はすくないのではないか。

    ただし通常は判定会議の席上、列席者の面前において卒業予定者の単位取得リストに記載されている数字を書き直すというのではなく、事前に、自己の試験成績が悪くて、卒業単位の不足を察知した当の学生が自己のゼミ担当教員などに泣きつき、それに押されて担当教員が同僚である関係教員にむかって辞を低くして、本来の成績点数(すなわち落第点)の再評価を頼みこむのである。従って判定会議配布のリスト上においては、もちろん、この種のありうべき薄汚い経過は、すでに跡形もなくインペイ・修正されているのが普通である。

    さらに重大なのは、このような厳正さの欠ける卒業判定システムの波及効果である。と言うのは、卒業直前の最終学年度において、このように不愉快なツジツマ合わせを余儀なくされるのであれば、教員の立場としては、もうすこし良心の呵貴のすくない成績評価の方法を採るようになる。すなわち日常的に、すでに新入生の段階から単位の認定が甘くなり勝ちになる。さきに入学早々の学生が、すでに大学にたいする甘えをもっていると述べたのは、こういう日本の大学運営の実態を、いちはやく上級生などから教えられたり、また自身、感じ取ったりしているからである。

    要するに、124単位修得という現行制度に著しい空洞化が見られるのである。換言すれば制度と実質とのあいだに大きい乖離ができてしまった。そのうえこれが最近においては、日本の大学卒業証書にたいする国際的評価が低いという事態にもつながってきている。これは、残念ながら、もともと厳正に行うべき科目認定のプロセスにおいて、いいかげんな手抜き作業の横行が黙認されてきたことの当然の結果といわねばならない。

    現在、日本の大学教育を活性化するためには、常時的なカリキュラムの再検討、その他、大学側の主体的な努力とともに、他方、教育をうける当事者である学生側における勉学意欲の再構築が必要であり、そのためには、かなりに抜本的な制度改革もまた必要ではないだろうか。私の考えでは、学生自身における社会、そして人生に対する責任とその自覚をうながすような措置をとる必要があると思う。そのための方策として、私は、現在の「大学卒業制度は廃止」して、それに代えて「自己決定による卒業制度」を導入したほうが良いと思う。すなわち、大学卒業の時点は自分で決めるのである。それが100単位であるか、それとも140単位または逆に85単位取得の時点にそうするのか、それを各自の判断にまかせてはどうか。各人が大学においていちおう納得のできる勉強はしたと考える時点において、ひとまず大学を出ていくような制度に変えるのである。なお、ここで「ひとまず」と条件をつけたのは、現代は「生涯学習の時代」であるから、必要とあれば将来また何回でも大学に立ち戻って、学習することになるだろうと予想するからである。もっとも、こういう場合の大学が、つねに同一の大学である必要は全くない。

    このような制度に変更すると、各自の取得単位数の値打ちについては、現在のように所属大学が認定して卒業証書を授与するのではなく、社会が直接に、そして実質的に評価することになる。その場合、各人の大学生活の実績を社会がどう判断するか。それがかなり不分明であるところに、当然、学生各自の悩みが生ずるにちがいない。しかし、そういう緊張感をつうして各人の責任意識が生まれ、そして人格が鍛えられることになろう。各自が良しとする取得単位数という実績を持って社会生活に出立するのが良い。義務教育から高等学校までの段階については生徒の判断力がまだ成熟しておらず、こういう制度の実施は無理であるけれども、大学生はすでに成人であり、社会人として一人前で、自己の行動にたいして法律的にも責任を問われる主体であるから、このような自己決定のシステムに対応する能力を持ち合わせているはずである。

    このような制度に変更されると大学は、現行の卒業証書にかえて、あたらしく「単位取得証明書」を交付することになろう。その証明書における単位取得数には、各人のあいだで当然バラツキがある。しかし、それは各人の主体的な選択の結果であり、客人が貴任を持つべき数字なのである。例えばオリンピック選手であれば四年間における学業の取得単位が百単位に達しないかもしれない。しかし、それは二度と来ない青春時代にスポーツヘの精進、そして即物的にはスポーツヘの多大の時間投入を自己が選択した結果である。たとえ取得単位数が百以下であろうと、社会はその個人の大学時代の努力の成果を全人的に評価することになろう。そもそも激烈な肉体的、そして同時に精神的な訓練を必要とするオリンビック選手が、四年という一般学生と同じ在学期間のうちに百二十四単位を取得しえているという正に超人的ともいえる現状には、その実態について必ずしも納得できないものを感じる。

    ここに推奨する「卒業の時期を自己決定する」という制度においては、大学は「標準的な取得単位数」を学生に示す必要がある。もっとも、この数字が全大学において同一という必要はないであろう。現代社会には大学教育を経過した人々が充満しているのであるから、取得単位数の「社会による評価」ということには十分な可能性が存在すると思われる。

    なお本章の最後に、ありうべき誤解をさけるため、大学院課程について一言述べておきたい。以上における私の主張は大学院については妥当しない。大学院とは、人口統計的にはおおむね、同一年齢層の一割以下にあたるとりわけ知的関心の旺盛な人々の勉学する教育施設である。そこにおける課程修了の認定のためには、方法の改善が必要であるにせよ、現行のように原則として論文執筆による学位の認定という方法以外に、私には独自の考えはない。


    第2章 卒業制度廃止で予想される事態

    1. 同窓会はつねに健在

    現在のような卒業制度が廃止されるとすれば、今ある同窓会という有力な社会団体の 存在はどうなるのか。卒業制度が廃止されると、論理的には新たに卒業生も輩出されな くなる。そうなると同窓会もそのメンバーがしだいに減少して、遂には消滅するような ことになるのか。

    その心配はないであろう。若い時期に同じ大学で学んだ数々の想い出は、生涯尽きる ものではないから、その共通の体験を基盤にして存在している同窓会という団体は不滅 であろう。ただ現在のような卒業証書という文書は廃止され、「単位取得証明書」に代 わることになるから、例えば特定大学の同窓会の会員資格は、同窓会規約において「そ の大学で一定以上の単位を取得した者とする」というようにして、取得単位の数量を明 示するようなことにでもなるのではないか。そのような規約にもとづいて役員会が個々 の会員を認定すればよいだけの話であろう。

    2. 各大学にとって個性的な独自カリキュラム崩壊の危険はない

    本書で提案するように、大学における取得単位数を学生個人の決定にまかせるとすれ ば、学生が、各種の講義のなかから比較的に単位の取りやすい、いわゆる「楽勝科目」 の選り取りにながれる傾向が、ますます強まらないだろうか。カリキュラム作成者側に とっては当然の心配ではある。

    しかし対策は容易であろう。その歯止めは、特定の必須科目の履修を条件として、一 般の選択科目の単位取得が有効になるというような履修規則を決めておけばよいのであ る。各大学のカリキュラムは、それぞれの専門ごとに、通常、一定の体系のもとに編成 されている。一般には学生はまず入門的講義を履修し、ついで専門的講義の履修へと進 むわけである。この過程においてカリキュラム提供側としては、どうしても学生に履修 してほしい講義がある。したがって大学側としては、複数の講義によって編成される特 定の講義ブロックごとに、そのなかで核となる講義の単位取得を条件として、当該講義 ブロックに含まれている他の講義の単位取得を認める、というように履修規則を定めて おけばよいのである。そうすれば学生が安易に楽勝科目に流れる傾向を阻止することに なり、大学側の意図する教育が実現できることになる。

    3. 大学内部において(欧米なみの)厳格な試験の実施はきわめて困難

    「わが国の大学教育をいかに活性化し、レベルアップすべきか」という種類の論議に おいて、しばしばお目にかかるのは「わが国においても欧米なみに単位取得にさいして の試験実施を厳格におこない、安易に単位取得を許している現状を改めるべきである」 というような意見である。しかし、これは日本社会の「内に甘い」という性格または慣 習にかんがみて、実施不可能であるのは現実の示すところである。

    一般には厳格な試験は外部機関によって実施する以外にない。したがって周知のよう に、わが国においても人命をあずかる医療職、公正さのとりわけ要求される法務関係職 などについては、すでに永きにわたり医師国家試験、司法試験、その他が実施されて、 それらの職業における水準が確保されることになっている。その他の職種についても、 厳格に水準確保の必要がある場合には、政府機関の担当部局または外部に新たに専門機 関を設置して、それぞれ適当な免許または資格などを与えるというのが、日本において も最近の常態となっているし、今後ともその方法を採ればよい。

    4. 卒業制度の廃止より派生するであろう数々の利点

    (a) 他大学講嚢覆修の容易化、すなわち教育機会の増大

    現代においては社会科学また自然科学とも、その内容がますます複雑化し多様化しつ つある。したがって一大学内において現代の多様な学問分科におうじる講義科目を、す べて提供するというようなことは不可能な状況となっている。このため最近においては 各大学が協力して講義を提供する「単位互換制度」が多少とも普及して、学生の学習希 望に応じる制度が動きはじめている。しかし現行制度のもとでは、そもそも単位互換の 制度的な取り決め、さらにその後、その実施にあたり、諸大学の間において複雑にして 多大の事務交渉および事務処理が必要とされる。結果として、こういう面倒な作業に躊躇するあまり、この制度の普及が、期待されるほどはかばかしく進まないという現実が ある。

    ところで卒業制度を廃止すれば、この面の事務処理は格段に簡素化されることになる。 まず大学相互間における手間のかかる事前交渉は不必要となる。各大学はそれぞれ自己 のみの判断にもとづいて、教室の収容力に余裕があれば、その大学にとって宣伝価値の あるいわゆる「人気講義」または「目玉講義」を外部にたいして開放することが可能と なる。他大学の学生また一般の社会人は「科目等履修生」(または聴講生)という資格で講義を学習し、さらに試験に合格すれば当該講義の単位および単位取得証明書があたえ られる。こうして現在よりはるかに容易に講義履修の範囲が、換言すれば勉学の自由が 拡大することになる。こうなれば、いずれ各大学における単位取得証明書をまとめて、 各個人ごとに集計した「総合単位取得証明書」とでもいうような文書を作成する公的機 関が設置されることになるのではないか。

    実は類似の公的機関が、一九九○年代初頭より、わが国において「学位授与機構」と いう名称のもとに、すでに設置されている。学士号から博士号にいたる各種の学位につ いて、本人のかつて在籍した大学または大学院の別にかかわりなく、学士号であれば諸 大学における単位修得の証明書、また修士号および博士号であれば各自の学位請求論文 など、必要な文書をととのえてこの機関に提出し、審査に合格すれば、それぞれ相当の 学位が授与される制度になっている。しかし本書の主張は、大学院については現行でよ いとしても、学部教育の段階については、全国の大学における卒業制度、換言すれば 「○○学士」という学位授与の制度が空洞化している。したがって、これを「単位取得 証明書」の授与という制度に変えたほうが、日本における学校教育の水準を現状よりも 格段に高めることになるだろうと述べているのである。

    (b) 生涯教育機会の響しい増大

    前項に述べたような制度は、換言すれば、現在さまざまに推奨されている生涯教育の チャンスの大拡大を意味する。また「やり直しのきく人生」というような、現在、これ また、かなり流行のスローガンの内容とも重なっている。賢明な読者は、すでにこの点 を感知されていると思われるので、ここでは、以上の指摘だけにとどめる。

    (c) 学歴偏重の漸次的沈静

    本書でこれまで述べてきたことはへわが国におげる学校教育、とりわけ大学教育にか んして、空洞化した形式を廃止し、教育の実質を回復しなげればならないという主旨か ら出ている。したがって、こういう制度が導入されると、現在、わが国においてはびこ っている過度の学歴偏重という社会的悪弊は、しだいに沈静化し、次代をになうべき青 少年を無用の悩みから解放することになるであろう。


    第3章 1975年以降の卒業制度廃止にかんする論調

    (準備中)


    第4章 21世紀の日本社会と教育問題

    この章では、本書の提案する「大学卒業制度の廃止」が現在なぜ必要とされるのかを、日本の教育に生している諸問題の単なる平面的列挙ではなく、それの総合的で構造的な分析を通じて明らかにしてみたい。

    ところで「大学卒業」とは学校教育の最終ゴールである。言うまでもなく現代社会は以前とくらべてますます変化が激しくなっているから、各人の獲得した学校教育の成果だけで一生を乗り切るのは無理であり、大学時代に獲得した知識の多くはかなり急速に時代遅れとなってしまう。例えば、就職の当座という新人時代はともかく、あるていど時間が経過して職業人として一人前となった時期に、仕事で失敗したさいなど、「それは学校では習いませんでした」などと弁解するとすれば、「お前はバカか」と怒鳴られるか、または周囲にそう思われるのが落ちであろう。

    したがって今日、生涯教育の必要が強調されている。しかし、こういう事態がすでに到来していることは、大学入試合格のみを目指して今まっしぐらの中学・高校生とその親たちの大部分にとっては、まだ見えていない世界、配慮する余裕のない事柄にちがいない。しかし、実はこの辺に現在の学校教育制度における最大の問題が潜んでいるのではないか。

    学校教育は小学校から始まる。ところで私の家の前は小学生の通学路である。ここ数十年、メンバーはもちろん入れ替われど、週日には多数の小学生が無邪気にシャベリながら往来する。まことに見るに楽しい風景である。私の小学生時代は第二次大戦直前の一九三○年代後半であったが、その頃の自分と、六十年後の現在の小学生を比較すると、いくつか気づくことがある。今の小学生の言葉遣いは昔より数年、大人びた感じであること、女の子の元気がよいこと、学校への持ち物が、水筒などもあって二倍ぐらいも重そうなこと、などである。また放課後の自由時間については、少子化と塾通い、それに自動車の過度の普及などの影響であろうが、近所で遊ぶ子供の姿はメッキリ減っている。

    もっともマスコミなどによれば、学校教育についてはすでに小学校段階においても、このような表面的な傍観者的観察ではすまされない事態、例えば授業時間中に教師の制止をふりきって、教室内をブツブツ云いながら歩きまわる、さらにはドクバタ走りまわるなど、その他、「学級崩壊」といわれる事態が全国的に起こっているとされる(1)。ただ、これらは本書の対象とは別種の問題と考えるので、ここでは指摘だけにとどめる。

    思春期である中学校段階にはいると、各種の教育問題が本格的に発生してくるが、その検討に入るまえに、そもそも教育とは何かということについて、ここで手短かに私の見地を述べておきたい。もちろん「教育論」について先人による各種の優れた研究のあることは承知しているけれども、ここではあえて自前の考えを述べておく。

    私は「教育とは、人生にとって必要で、また有益な規範、技能および知識の習得(または学習)を助けること」と考える。人間は生まれると直ちに食物の摂取、衣類の着用、その他、「生活の方法」を主として家庭教育をつうじて学ぶことになる。こうして現代社会における教育の場としては、家庭教育、学校教育、職場教育および社会教育などがある。

    この場合、重要なことは、人間にとっては死にいたるまで「学びの心」が大切だということである。「先生はどこにでも」存在するのであり、人間は誰でも特定のことについて、そして特定の時間の範囲において、先生になる可能性を持っている。もっとも家庭教育においては原則として親が子供を教える立場にあり、また学校教育においては教員がそういう立場にある。しかし、こういう立場を極度にかたくなに固守することは誤りとトラブルの源となろう。諺にも「負うた子に教えられ」ということがあり、幼児時代においてさえ、親子間における教える立場の一時的交替のありうることを忘れてはならないだろう。

    ここで教育観について、さらに私のやや個人的な信念を付言しておくと、教育とは知識偏重ではなく「全人教育」であるべきである。一定水準のバランスのとれた知育、徳育、体育の成果を基礎としたうえで、各個人の特徴とする能力を伸ばすような教育をなすべきだと考える。この点、私は現代日本の学校教育が、受験技術の習得という特殊な知育にあまりにも偏向しているのではないかと危倶している。

    現在、わが国の学校教育について一般に以下のような問題現象が指摘されている。それは第一に、学習にさいしての生徒の消極的姿勢であり、無気力な生徒の大量出現である。この状況がさらに悪化すると、学校生活に適応できない荒れている子供、いしめ、その結果としての不登校などの現象のこれまた無視できないほど大量の出現である。これらの事象の極限としては自殺があり、さらに最近数年においては学校周辺または学校内での中学・高校生による殺人事件までが数次にわたって惹起され、ひろく世間にショックをあたえている。また第二に、日常、私などの街頭および電車内における何気ない観察によっても、最近の生徒および学生における社会性の著しい不足(これは社会的マナーの水準の低下に通じる)、そして未熟な自己への自閉的傾向を感じざるを得ない。そして第三に、学校教育における技術主義の跋扈、受験技術養成への傾斜があり(これは教師側の問題)、そういう教育の結果として、反射的(おうむ返し的)で、思考力の不足している生徒および学生の、これまた大量産出という現象がある(これは学生・生徒側の問題)。もっとも、この事態をもたらした責任はどこにと間わ れると、それは言うまでもなく前者にあり、後者は基本的に被害者である。

    ここで日本の学校教育制度、とくにその中学・高校段階におけるカリキュラム編成において「大学入学試験の方法」が支配的な影響力を揮っているという事実が確認されなければならない。なぜ大学入学試験の合格が最重要の勉学目的かといえば、それは言うまでもなく現在の日本において「大学入学試験の合格、即、大学卒業免状の取得、すなわち学歴の獲得」とほぼ同し意味であるという現実が存在するからである。せっかく大学の入学試験に合格しながら卒業免状は貰えなかったというようなケースは、健康上の理由などを主とする例外的なものであり、また家庭の経済的困窮も、今日では各種の奨学金およびアルバイトなどの方法があるので、大学に在学するについて決定的な阻害要因ではない。したがって大学をめざす中学・高校生と彼らの親たちの関心は、世間の評価が高い学歴の獲得をめざして、一流とされる大学の入試に合格するということの一点に集中する。そして、大学合格をもって両親、とりわけ母親は、子供にたいする親としての義務と責任から、ひとまず解放されたと思うのであろう。

    日本の中学校より大学にいたる学校教育において最大の影響を及ぼしている関門は、既述のように大学入学試験である。そもそも教室の収容人員および教員の授業負担などには自ずから限度があり、したがって正常な教育環境を維持するためには「学生定員」という基準が必須となる。こうして学生定員の設定が必然である以上、入学希望者が定員を超えて殺到する大学について何らかの方法による「大学入試」を実施すること自体は、これまた必須の社会的要請となる。ところが現在の日本の大学については、「入試合格」が事実上その「卒業免状獲得」と同義であるところに大きい問題が存在する。中学生・高校生およびその教師と親にとり、大学入学以後における大学での勉学自体は遥か彼方に横たわるブラック・ボックスであって、ただ目前の大学入試という一行事にすべての関心が注がれる。したがって、わが国において大学入試という空間はいわば過熱し、恒常的な発熱状態にあるといえる。

    ここに二つの弊害が生まれ、日本における大学教育の水準を大きく低下させるにいたっている。現行のような大学入試のひきおこす弊害の第一とは、まず中学以来の暗記優先的、技術主義的な受験教育によって思考力の低下が認められる。さらに、先に指摘した日本の大学における慣行、すなわち「入試合格、即、卒業の保証」という「甘えの構造」が大学生の緊張感をおおきく低下させ、これら両者の相乗作用によって、現在、大学生の勉学意欲の著しい低下が認められる。

    この面の実例報告として一九九八年、中央大学理工学部の田口善弘助教授は『日本経済新聞』の教育欄において、「当世学生気質・勉学に元々"興味なし"・最大の関心は卒業」という見出しのもとで以下のように述べておられる。すでに第一章において私自身も、学生の自発的学習意欲の著しい低下について思うところを述べているが、同種の見解の一例として、ここに引用しておく。

    「私〔田口氏〕は昨年から物理学科で新一年生の教育をしている。講義を本格的に持つのは初めての経験だったが、講義で感じた現代の大学生気質を記したい。赴任当時、講義についてさしたる不安があったわけではない。今から思えばうぬぼれが過ぎたのであるが、要するに意欲ある若者に彼らが学びたいと思っていることを教えればいいのだから、困難なことはそれほど無い、と信じていたのだ」。
    「しかし、講義を始めてすぐ、これはなんだかおかしいと気づいた。講義(科目は力学)では、私が作ったプリントを配って、それを読めば講義内容がわかるようにしておいた上に、講義でさらにそれを説明した。それなのに、講義の後に学生がどうやって勉強すればいいのか、と尋ねに来る。"プリントを読みなさい"と助言すると、けげんそうに帰って行く。試験をして驚いた。試験ではプリントを持ち込み可能にして、それを写せばいいような問題まで出したのに、その問題すらできない学生が続出したのだ」。
    「これはいったいどうしたことか。疑問が氷解したのは夏休みも明けた後期のことだった。試しに後期の二回目の講義のときに、"先週配ったプリントを家で一度でも開いた(読んだ、とまでは言わない)ものは"と尋ねたところ、手を挙げた学生はごくわずかだった・・・」。
    「最近の大学生の最大の関心事は、大学を留年せず最短年限(普通は四年)で卒業することであって、在学期間中に自分がどれだけ向上できるかということはほとんど眼中に無いといえる・・・」。

    部外者は驚くかも知れないが、これが現代日本における大学生の平均的な学習態度なのである。

    この点についてもう一例、こんどは学生側の声を紹介しておこう。最近の『朝日新聞』投書欄に「遊びばかりで存在意義ない」との見出しのもとに掲載された、二十一歳の大学生、迫田宏光君の意見である。

    「同じ大学のキャンパスで、桜の散っていくのを見るのも四回目。キャンパスでは、クラブやサークルの勧誘が盛んだ。しかし、新入生が入ってくるたびに思うことがある。一体、大学は何をする所なのかと。クラブやサークルに打ち込むのは素晴らしいことだが、その一方で大学の本当の存在意義が薄れているように感じる」。
    「僕の通う大学は、ましめな学生が多いといわれているが、学問に真剣に取り組む学生は、せいぜい四分の一。ほとんどの学生は、勉強はテストの前だけやるもの、大学生活は遊んで過ごすものと、とらえているようだ」。
    「高校のとき、先生に"今は一生懸命勉強して、遊ぶのは大学に入ってからにしなさい"と言われた。僕が"大学に入ってからが本当の勉強なのではないのですか"と返すと、驚いた表清で"さすがだな"とかわされた。これでは、高校までの勉強は受験のため、といわれても仕方がない。今年入学した新入生が、これからの大学生活で学ぶことの楽しさを見つけてくれればと思う」。

    大学入試方法のひきおこしている弊害の第2としては、近年、盛んになっている私立大学を主とする「少数科目入試」の流行である。高等学校におけるカリキュラムは本来「英・数・国・理・社」、すなわち「英語、数学、国語、理科、社会科」という五教科のバランスのとれた学習が基本とされる。ところが私立大学の文科系に始まり、近年はその理科系においても、入試受験生の数集め(すなわち受験料収入の増大)をねらって、三科目入試、さらには二科自入試が流行となっている。この傾向はただちに高校のカリキュラム編成に影響し、高校段階においても生徒の志望大学入試にあわせて少数科目教育が盛んになっている。換言すれば、バランスのとれた高校教育が放棄され、教育内容が貧困化している。

    私は長く経済学部教員をしており、経済学部学生の素養として、高校段階の社会科授業については「日本史、世界史」の二科目の履修が必要と考えているが、ゼミ学生の応答がトンチンカンな場合など、不審に思って確かめてみると「高校では世界史(または日本史)を取りませんでした」という得々とした返事を間かされるのが普通で、まずは心中「何をか言わんや」の感がする。しかし現在、考え直してみると、その学生個人については当面「時すでに遅し」というか、すぐには何とも救いようがないので「何をか言わんや」でやり過ごしたのだが、こういう状況の放置は日本の文化水準の長期的低下につながるわけで、実はまことに由々しき事態である。

    この問題について大学の理科系学生の状況については、以下のような報告がある。すなわち、「高校時代にまったく生物を学習していない学生が医学部に入学してくる。信しられないような話だが、本当だ,・・・。生物を勉強していない学生、生きものに関心を示さないような人間が、たんに成績がいいという理由で医学部に進学し医師を志す。そのこと自体、問題ではないか。こんな医師にはかかりたくないと思う」。

    物理の勉強をしていない学生も少なくない。龍谷大学理工学部物質化学科の和田隆博教授はいう。

    「学内でアンケートをとってみると、高校のときに物理の授業をまったく受けていないというのが約二○パーセントもおります。物理に関しては中学のレベルのまま大学へきているということです」。
    「理工学部の学生が物理を理解できない。これまた信じられないような話である。同じ理工学部物質化学科の中沖隆彦講師は、"それが顕著になってきたのはここ数年のことです。高校側も無駄な勉強はせずに受験科目だけにしぼって勉強するということになっている。そうすると物理はいらないということになる。この間ある高校の先生が、やはり大学で物理はいりますかというんですよ。そりやいりますよという話をした"と笑する」。


    以上、現代日本の学校教育において大学入試という行事の占める支配的な地位、またその問題点について繰り返し説明した。なるほど今日、大学入学後における学生の受動的で消極的な学習態度については、現行の大学入試の方法に大きい原因のあることが認められる。しかし問題はそれに尽きない。注意すべきは、さらに大学自体の教育制度およびカリキュラムにも多くの改善すべき点のあることである。もちろん、多くの大学において各種の改善のための努力がすでになされ、また実際に改善された事柄も多々あるであろう。ただ「大学入試合格、即、大学卒業の保証」という慣行については何ら手を加えられることなく存続している。この慣行が大学進学以後における学生の目的感の喪失につながり、そして無気力学生の大量産出の最大の要因であろうと見なしているので、本書は、すでに時代遅れとなっている「大学卒業制度」の廃止を提案しているのである。

    著名な経済学者であるロンドン大学の森鳴通夫名誉教授は、日本の大学教育を改善するためには、第二次大戦後、急速に増大した大学の数を、逆に大々的に削滅せよとの見解を表明される。すなわち、同年齢として「生まれた者のうち四○パーセントの者が、まずまず理解し得るほどには大学の教育はやさしくあってはならない。大学のあるびき教育内容に大学が固執すれば、大学生の半分以上は授業がわからないままに大学を卒業してしまう。そういう人にも目をつぶって卒業証書を与えるなら、証書は免許の意味をなさなくなる」。
     「免許を得ているから採用するのではない。企業は免許を得ている人の中から選ぶのである。といっても免許を得ている人が該当年度に生まれた人の四○パーセントもいるのだから、そこから欲する者を選び出すことは絶望的に難しい。大学を卒業したという免許には何の意味もないのだ。私の言っていることは、"卒業しました"と大学が認定している証書が信頼できるようにするには、大学の規模をどのくらいに縮小すればよいのかということである」。

    以上の森鳴教授の見解のうち、現在、大学卒業証書は無意味になってしまっているという判断に、私はもちろん同意見である。しかし、大学の数を滅らせという提案には賛成できない。

    本書の一貫した立場は「大学卒業制度の廃止ー>大学卒業免状の消滅」を推進することである。現代においては、すでに希望者がいるかぎり、大学は数多く存在してもいっこうに差し支えないと思う。良くないのは、実態にあわない空虚な卒業免状を乱発している現状である。

    大学進学者のすべてが文部省令「大学設置基準」に定められる四年間で百二十四単位以上の単位を修得して「大学を卒業」するという社会的必要はないだろう。大学に進学できた者は、たとえ百単位に満たない実績であろうと、各個人なりに、それぞれ大学教育の思恵をうけているのであり、一般に学生は大学に入って二、三年すると、入学当初にくらべ人間として大きい成長を遂げていると認められる。換言すれば、彼らには大学に入った値打ちが確かにあったのであり、大学教育は国民の文化水準の向上にとって有益である。

    ところで教育の一般的な社会的機能とは何か。現代社会において小学校から大学にいたる学校教育とは、分業社会における職業選択の準備のプロセスであり、自己の適性の発見、適性の陶冶の過程である。換言すれば、この過程をつうじて各人にとって如何なる職業が適当であるかの第一次的な社会的選別が実施されることになる。その結果、各人はそれぞれ自己の職を得ることになるが、終身雇用制のおおきく崩れた今日、今後は生涯にわたって何回も社会的な選別・選択の機会が訪れることになるだろう。

    周知のように、われわれの近・現代社会は、十八世紀末におけるフランス革命という政治的革新、また当初イギリスに始まる産業革命という経済的革新、これら二つの大きい社会的変革を区切りとして始まった。それ以前の封建社会が世襲的職業身分の継承を原則とする、すなわち例えば農民の子はいずれ農民になることを強制されていたのとは異なり、この近・現代社会においては普遍的な社会的分業が実現され、同時に「職業選択の自由」が認められている。したがって以上に述べた職業選択の「プロセス自体」は、今日、私たちにとって生きていくうえでの不可避の運命、各人の避けることのできない「人生設計上の課題」である。ところが問題は、現代日本において、この選択・選別の過程が「大学入学試験」の時点を中心とし、その前後において教育というものの本来あるべき姿から大きく外れているということである。

    大学(含、大学院修士課程)はいわゆる最高教育機関であるから、二十一世紀の社会においては各人の生涯の転機ごとに、必要があれば何回でも立ち帰って学習する場となるであろう。それはもう青年期のように数年間にわたり昼間の授業に通うというような恵まれた形態のものではないだろう。聴講生、その他の資格で、一週に一日または半日とか、あるいは夜間などに希望する講義を受講するという形になろう。そして講義の終了時点の試験に合格して単位を修得し、そのようにして生涯にわたって学業の単位を蓄積していくことになるのではないか。そして、こういう場合、受講者はただ母校だけではなく、必要におうじて色々の大学において受講することになるだろう。二十一世紀においては教育施設についても、こういう開かれた社会が間もなく登場することになるだろう。

    日本の杜会生活の各面においてグローバリゼーションという社会環境が漸次的に出現しつつある現在、それに対応できるような、求められる人間像とは何か。それは個性的で独自の判断のできる人間、独創的な人間である。また以上とは別に、現在、再出発または出直し可能な社会構造を構築する必要があるとの社会的要請もますます強くなりつつある。このさい「形式的学歴の追求」から「真の学力獲得」への転換、教育の原点への回帰の必要がある。そうでなければ二十一世紀の国際社会における日本の地歩を確保し、また世界文化の進展に貢献できるような骨太の人材の集団的輩出は困難であろう。

    以上における本書の説明によってすでに明らかなように、現在の「大学卒業証書」は過大評価された価値、すなわち「バブル価値」にほかならない。如何なるものであれ、バブルはいずれ破裂するのが歴史の宿命というものであろう。



    (注) (1)『毎日新聞』(大阪版)一九九八年八月三日号。さらに、河上亮一『学 校崩壊』草思社、一九九九年、一八三−二○五ぺージ。

    (2)『日本経済新聞』(大阪版)、一九九八年九月二十日号。

    (3)『朝日新聞』(大阪版)、二○○○年五月七日号。

    (4)大宮知信『学ばず教えずの大学はもういらない』草思社、二○○○年、 一四−一五ぺ−ジ。

    (5)森鳴通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、一九九九年、一二三−一 二四ぺ−ジ。

    第四章については以下の文献をも参照した。

    大崎仁『大学改革一九四五−一九九九』有斐閣、一九九九年。

    ラッセル『教育論』(安藤貞堆訳)岩波文庫、一九九○年。

    佐藤三郎『ァメリカ教育改革の動向』教育開発研究所、一九九七年。

    宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、一九九八年。


    (付録)大学教育に「卒業」という制度は必要か

    あとがき

    (準備中)
    追記(2002.5.28):本書をご希望の方は、80円切手3枚(計¥240)を同封のうえ、著者までお申し越し下さい。一部を贈呈いたします。
    〒593−8303、堺市上野芝向ヶ丘町4−5−11 藤田 整 あて