==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
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第115回「続・大学と小泉改革:悲惨な予感」(2002.3.9)からこのページに来られたかたへ。団藤氏の主張を御自分で良く確認してください:
  • 第115回「続・大学と小泉改革:悲惨な予感」へのコメント

  • (団藤)「あなた達は知識人なのか、それとも、竹槍を持ってでも米軍の本土上陸を阻もうとした旧日本兵なのか」
    (辻下)「私たちの直前の世代の方々を「竹槍を持ってでも米軍の本土上陸を阻もう」と思うまで追いつめることになる時流を、あるいは推進し、あるいは放置した「知識人」のようには、できることなら、なりたくない。」

  • 高等教育フォーラム

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    団藤氏へのメール

    辻下 徹

    2002.2.21
    団藤氏の「インターネットで読み解く!」第114回2002.2.21「大学と小泉改革:担い手不在の不幸」について、感想を送りました。以下はその抜粋です。(加筆修正があります。「」内は団藤氏の論説からの引用です。)。

    なお、団藤氏はこれまでに以下のような論説を書いています。

    団藤保晴 様

    (略)

     しかし、国立大学の独立行政法人化の不毛さを最初から(*)明確に理解されていた団藤さんでも、この問題の全体像を十分には理解されていない、という気持ちがして、残念に思いました。

    (*) 第74回「大学の混迷は深まるばかり」 (99/08/26) 

     たとえば「反対にしか道を見いだせない大学人」という言い方には、国立大学にお ける文部科学省の支配力の強さへの無理解があると思います。(中略)それでも反対の声がいまなお消えないことがいかに驚くべきことか、団藤さんに理解して頂ければと私は思っています。

     また「反対にしか道を見いだせない大学人」という言い方から「反対すれば良いと 思っている大学人」と考えておられるように感じましたが、それは完全な誤解です。 時間が限りなくかかる教育・研究に加え単調に増大する改革雑務等に埋め尽くされる 勤務外時間の合間を使ってできることは極めてわずかなものです。何が起きているの か把握し膨大な議事録を読み、可能ならば批判する文書を書き投書したりインターネ ットで伝える、ということだけで精一杯なのです。

     反対するなら誰でもできる、反対するなら対案を出せ、ということは最初から言わ れていましたが、実現可能性を考えなければ対案はすぐにでも作れます(中略)。実現可能性とは大学社会の中で今受け入れられるという面も重要です。そういった流れと無関係に対案を作ろうと何人かと話合ったこともありましたが、限られた人的・時間的資源を考慮すれば、そういった案を政策決定に影響を及ぼすには、マスメディアに取り上げられることを期すしか方法はないが、(鹿児島大学長の構想など全く取り上げていないことからも明らかなように)それは余りに空想的ですし、たとえ、そのようなことが起こったとしても、いつものように文部科学省が欲するような部分だけ「つまみ食い」されるだけで、やぶ蛇になるのが落ちである、結局対案作りはアリバイ作りの自己満足に終わると判断しました。それよりは、独立行政法人化を黙認しない方が一番現実的で醒めた戦略である、と私は思っています。

     民営化や非公務員化への反対理由についても、団藤さんは誤解されているようです。

     まず、民営化や非公務員化が政府部内では高等教育予算削減と同一視されているから反対しているのであって、高等教育予算法のようなものを作り安定した高等教育予算が確保されるのであれば、国立大学などである必要は全くないと私は思います。その条件があれば国公私という区別を廃止し大学の間に、御前試合ではない真の競争が生まれて大学全体が活性化するでしょう。しかし、現実には、これは全くの幻想であり、独立行政法人化や民営化は国の事業としての高等教育を縮小・廃止する長期的国策の一環として進められているのであり、直近には、高等教育予算縮小そして学費値上げに直結していることは明らかではないでしょうか。

     また、自分の公務員身分を守るために非公務員化に反対している人はいないでしょ う。非公務員化しても現在の教員の身分は守ることを記した「文書」が連絡調整委員会で配付されていることは周知の中で非公務員化反対の運動が展開されていることに注意すべきではないでしょうか。自分の公務員身分を守るためではなく、これから大学に就職する人達が、民間の企業と同様に「人事部」の意向を絶えず意識しながら研究・教育をしなければならなくなることを憂えて、公務員型・非公務員型を問わず大学の実質的企業化である独立行政法人化に反対しているのです。


     大学が今の100分の一の規模になるとすれば違うかも知れませんが、数万人の社 会である国立大学社会は、日本社会の良いところも悪いところもそのまま引き摺って います。日本社会の持つ短所とよばれているものを大学から一掃しようということを 目指して改革することは、その短所をさらに悪化させることになるリスクがありま す。短所を矯めるのではなく長所を伸ばすための改革を目指さないと大誤算となるとおもいます。大学には縁の下の力持ちであることに誇りと喜びを感じている人達が沢山います。そういった人達を評価する数値などないのです。一部の「怠け者」(非常に活動的だが、良く見ると何もしていない怠け者も沢山居るので、数値や見た目ではわからない)を捜しだし追いだすために、多くの真摯な人達を苦しめる一方、その場限りの仕事しか関心が持てない短期派遣業務の人達で大学は埋め尽くされ、大学は機械のようなものに変身していくリスクが余りに大きいのです。

     マイナスをゼロにすることは、ゼロをプラスにする以上の意義のある大学改革では ないでしょうか。独立行政法人化で大学が失うものは余りに大きい、それを反対する ことは、現在の国立大学教職員の当然の義務であると私には思われますが、それを口にすることで所属する部局等に迷惑を与え孤立することを怖れるのは自然な人情です。独立行政法人化後に独立行政法人化の毒を消し去る努力をする方が誠意がある姿勢ではないか、と、良心的な人達の多くは秘かに決意を固めているのかも知れません。しかし、それは大きな誤算であると私は思います。やはり今1の努力でできることが、100の努力でも出来なくなってしまうことが数多くあることは明らかなので、今大学に居るものは誰が何と言おうと、独立行政法人化の底知れないリスクを指摘していかなければならないと思っています。

     それを伝えるためには、団藤さんの言う2行改革

       1.助手や助教授に対する教授の人事権を廃止、教官選考は公開、
       公募制とし、選考委が学部にどういう専門分野の人材が必要かを
       検討して選ぶ。
    
       2.その大学の出身者は学外機関での勤務経験を経ていなければ
       給与を70%しか与えない。この規定は現職の全教官に対しても5
       年後から適用する。
    

    を東大や京大などの旧帝大が打ちだして独立行政法人化に反対するのは検討に値する戦略であると思います。

    (中略)

     日本社会で問題を抱えていない組織や社会はないと思います。どの組織をやり玉に 上げるのかーーそこの選択が全く無茶苦茶であると感じています。マスメディアの罪悪は、何が公正であるか、という意識を失ってしまっていることです。国立大学を今この時点でスケープゴートとしてやり玉に上げられていることは自明なことではないでしょうか。

    「しかし、メディアは所詮は社会を映し出すものにすぎません。独立行政法人化の動 きに対して具体的な代替案が出てこないと報道することすら難しいのです。「学問の 自由」がそれに当たらないことは、もう理解いただけましたね。」

    このような言葉を団藤さんから聞くのはとても残念です。少数の者にしか重要性が理解できない問題がたくさんあります。特に大きな政策であればあるほど、問題点が見えないような工夫がされていることはよくご存知でしょう。社会の反応の大きさだけで記事を評価する今の新聞社は、政府の意見を広げるだけの役割しかなくなりジャーナリズムの使命を失いかけているのではないでしょうか。

    今回の団藤さんの通信も根本において大きな「公正」さに欠けていたと思います。


     「変わるしかない――そう思えればインターネットの時代です。今からでも声を糾合して、大きなうねりを作り出すことは不可能でないはずです。」

     内発的に「変るしかない」と思う人は大学ではわずかです。文部科学省に鞭打たれ て「変るしかない」と思う人達のやることは画一的で大学を悪化させます。良いもの は、やはり小人数によってしか担われない、という醒めた意識が必要です。そして、 その小人数を排除する機能を持つ独立行政法人化ほどの大学改悪はない以上、いま、それを反対することが最も冷静で醒めた行動である、と私は思っています。

     今、大学は正念場です。大学内部では「再来年4月の法人化」に向けて準備が当然のように始まっているようですが、あれほどまでに問題点が明確に認識されていることに対して、わずか2年が経過しただけで、日常的に準備をし始める光景には背筋が寒くなるものを覚えます。しかし、これは日本社会そのものの縮図なのでしょう。その縮図の中で「時代の流れ」という呪文の呪縛を解くことができるか否かーーそれが、今の大学関係者に課せられた、象徴的な課題であると思っています。大学社会がこの問題の適切な解決に失敗することは、日本社会の前途にとり不吉な予兆となると思います。

    辻下 徹


    第115回「続・大学と小泉改革:悲惨な予感」(2002.3.9)についてコメント
    (団藤)「その最後近くにある「内発的に『変るしかない』と思う人は大学ではわずかです。文部科学省に鞭打たれて『変るしかない』と思う人達のやることは画一的で大学を悪化させます。良いものは、やはり小人数によってしか担われない、という醒めた意識が必要です。そして、その小人数を排除する機能を持つ独立行政法人化ほどの大学改悪はない以上、いま、それを反対することが最も冷静で醒めた行動である、と私は思っています」には、がっかりするしかなかった。それでは独立行政法人化反対運動が成功したとき、何が起きるのか。今の大学が残るだけではないか。これを読んで一般の方たちは、どう感じるだろうか。」
    高等教育フォーラムで以下の議論があったことは団藤氏は紹介していない。
  • No. 4149 落合栄一郎:「辻下さんの#4147について」
  • No. 4151 辻下 徹:Re:4149 落合さんへ
    コメントをありがとうございます。お答えになっているかどうかわかりませんが、言葉足らずや言いすぎがありましたので補足させて頂きます。

    (落合)「(1)まず、『内発的に「変るしかない」と思う人は大学ではわずかです。』と断言されました。この部分は勿論辻下さんの観察で、その観察の正確さに疑問を差し挟むわけではないが、それが正しいとするならば、私が、今まで期待してきた、内部からの改革は不可能ということですね。非常に残念です。」

    大学の教育・研究は個人がそれぞれ創意工夫を行うことを基盤としています。その意味での「向上」を思わない人はわずかだと思います。しかし「組織としての大学を変える」という<政治的>側面を伴う活動にも関心があり適性がある人は大学では限られていると思います。

    しかし、内発的に「変るしかない」と思うわずかな人のアイディアが活かされるのであれば、それだけでも十分「大学の改革」は進むと思います(むしろ、その位のペースが大学の改革として適切ではないかとも思います)。しかし、そういった内発的な総意工夫が活かされないような「状況」が、内部からの改革を不可能にしている、という見方はできないでしょうか。

    独立行政法人化に対して大学側に期待があったとすれば、その一部は、内発的なアイディアが自由に活かされる「大学の自主性」への期待にあったと思います。しかし、中間報告のふたを空けてみれば「文部科学省による策定ないし認可制」という、今まで以上に直接的な行政の指揮権が伴う「独立」法人化でした。

    (落合)「(2)次に、『文部科学省に鞭打たれて「変るしかない」と思う人達のやることは画一的で大学を悪化させます。』内部からの改革が不可能で、しかもなんらかの改革が必要ならば、残念ながら上からの改革の押し付けにならざるをえないでしょうね。その場合、それを受け取る側は、大学を必然的に悪化させるとのことですが、それは、どうしてなのでしょうか。どうしても、独法化がやむえないとして、そして上からの目論見に従うならば、大学教育にとんでもない悪影響を及ぼすに違いないとして、大学人は、その悪い部分を骨抜きにしてしまい、良い部分を大いに引き伸ばそうではないかという手段(意識)で対抗することはできないのでしょうか。大学人の総意を結集すれば、例えば、こうした対抗手段は可能ではないかと思うのですが。」

    少し言い過ぎがあったと思います。問題意識が、独立行政法人化後に学問の自由をいかに守るか、という点に移行している人も少なくないと思いますし、その努力は決して無効ではないと思います。「独立行政法人化」後は、そういう努力は当然行われると思います。

    しかし、「大学人の総意を結集すれば」独立行政法人化を簡単に退けることができる現時点(百歩譲って、独立行政法人化を容認するにしても、本当の「独立法人」化を要求することも可能な現時点)で、「独立行政法人化後でも大学人の総意を結集すれば対抗ができる」から産業界仕様の独立行政法人化を言われるがままに受け入れる、ということは余りに非合理的ではないでしょうか。

  • No.. 4156 落合栄一郎:「大学改革への取り組み」(4151に関して)

  • (団藤)「「高等教育フォーラム」の「「GN」>4137辻下さんへ」で大鷽さんは「辻下さんの発言が『阻止』の逆効果になっている可能性を考えられた事はないのでしょうか。国立大学の人たちの考え方の主体がこういうものならば、やはり早く制度改革・大学法人化をやった方がよい、と思われる可能性です」と、鮮やかに切り返している。」
  • 大鷽氏への返答(2002.3.9)No.4299 辻下 徹「フォーラムの認知的複雑度を保つために」
     大学教育をめぐる豊かな言論のニッチであった貴重なフォーラムが奇妙なものに退化していく危惧を感じているのは私だけでしょうか。ここで議論を展開する余裕は種々の意味で私にはありませんが、フォーラムでの私の発言にも責任の一端があるようにも感じますので、少しだけ発言させて頂きます。

     もうだいぶ前のことになってしまいましたが、大鷽さんがNo 4150 で「もしも辻下さんの発言の主旨がいわゆる「国立大学法人化阻止」にあるのであれば・・・」ということを言われています。私が「阻止」したいことがあるとすれば、国立大学関係者が、独立行政法人化問題は政治問題だから大学の手を離れた問題である、という傍観者的な態度をとることです。

     2年半ほど前から、この問題に個人的に関わってきたことを振り返ってみると、積極的な効果がどこまであったかは定かではありません。大鷽さんが「国立大学の人たちの考え方の主体がこういうものならば、やはり早く制度改革・大学法人化をやった方がよい、と思われる可能性」(No. 4150)を指摘されたように、裏目に出ているのかもしれません。自分自身そう感じる時はたいへんつらい時です。

     たしかに、これまで独立行政法人化問題について私がしたきたことと言えば、独立行政法人化に関連する「当局資料」に目を通して機会があれば意見を述べること、情報をオンライン化してアクセスしやすくすること、関連情報をメールマガジンとして配信する、ということにとどまっています。

     しかし、最初に思ったことは、藤田さんや落合さんのように高い見識のある方々が問題の本質を見抜き、種々の場で種々の形式で適切な発言をしている、ということでした。問題は、日本社会における見識の欠如ではなく、それが広がる伝達路の欠如である、と最初から思えたのです。重要な情報・文献がオンライン化され、誰でも知りたい事柄について検索すれば瞬時に最良の洞察・見解・提案と信頼ある情報にアクセスできる情報構造を社会が持つに到るとき、政策決定過程の構造も自ずから変ってしまう、と考えましたし、その考えはさらに強まっています。

     この考えから、インターネットがもたらした社会の新しい情報(貯蔵・流布・生成)構造の構築実験として、独立行政法人化問題の情報・発言の蓄積・加工・流布の実験を続けてきています。この作業は、提言構築の戦術とは異質なものであり、即効性効果が望めないことは確かです。実際、独立行政法人化のプロセスの進行にはわずかな影響しか及ぼすことしかできていないと感じます。しかし「国立大学独立行政法人化の諸問題」のサイトには、1999年11月以来170万以上のアクセスがあり、トップのページには毎日800程のアクセスがあります。これは、立場を越え情報源として多少は価値があるサイトになっているのではないか、種々の理由から独立行政法人化問題について考える必要が出来た人は、最低限の「常識」はすぐに得られる状況にはなっているのではないか、と多少は期待しています。

     大学についての情報(問題点の指摘・改善のアイディア・提言等も含む)が中央に一旦集められそこで加工されてから発信されていく従来の構造を保つ限り、上からの「改革」が形だけのものとなるのを避けることは困難ではないかと思っています。というのは、数百万人がかかわる現在の高等教育諸活動の複雑度に見合った認知的複雑度は、そのような情報構造では担えないと思うからです。旧大学審議会が残した夥しい答申が効を奏しなかっただけでなく大学システムに禍根を残したのは構造的なものと思います。また、少し前に私が言及した、独立行政委員会としての「中央高等教育委員会」についても、たとえ行政からの独立度が高いものになったとしても、この点での欠陥を免れるにはどうすれば良いかは難しい問題のように思います。

     以上が私の活動の「主旨」です。この主旨は、準備期間を終え、間も無く立ち上がる Academia e-Network の主な活動の一部にも組み込まれていくものです。


     このフォーラムの意義の一つは、中央教育審議会などには欠けている認知的複雑度を持った言説空間となっている点にあると思います。これは管理者の方が述べられた意図を別の言い方をしたものと言えないでしょうか。

     このフォーラムの認知的複雑度は、実名ないし実名に実質的に近いハンドル名だけに限っても損なわれるものではないことは明らかだと思います。また、一部の善意なき鋭い論客に怯えて発言を控える人が多くなると、フォーラムの認知的複雑度が下がることも危惧されます。

     したがって、このフォーラムでのハンドル名使用の理由としては、実名が公になることに具体的理由がある場合のみ許すべきです。そして、その場合には管理者に実名を告げることに何の不都合もないと思います。(Yahoo! JAPAN の掲示板ですら、書き込むには実際の住所氏名を登録しパスワードをもらうようになっています。いうまでもなく、Yahoo の見えない管理者の信頼性より遥かに高い信頼性を、このフォーラム管理者が持っていることにだれも異論はないと思います。)

     そこで、管理者の方に多少負担が増えると思いますが「新ハンドル名は管理者の承諾を得てから使用する」というルールを設けることを管理者に提案したいと思います。ルール違反の書込は自動的に削除することで、管理は容易になると思います。なお、技術的に容易であれば、書込時にパスワード形式を利用したとしても閲覧は公開ですからフォーラムの認知的複雑度と意義が退化するようには思えません。

  • 大鷽氏からの返答: No.4300 「「GN」4299辻下様へ」

  • 高等教育フォーラム No.4239 福田健二「団藤さんへ」
    「団藤さんも、大学改革が放っておけば、大学という名の特殊法人を増やすことになりかねないという危惧はお持ちのようですね。たしかに改革反対だけでこのまま大学人に任せておけば、百年河清を待つだけに終わるかもしれませんが、だからといって上からどかんと「改革」すれば良いということにはならないと思います。団藤さんと問題意識を共有する大学教官にとっての、改革の阻害要因はなにか、一つ一つ明るみに出して解決策を提示していくことこそ、マスコミの役割ではないのでしょうか?「大学」をひと括りにして一刀両断、改革しろ、というキャンペーンを張ってしまったら、その結果は団藤さん自身が心配されている通りになるのではないかと思います。私は「2つの改革案」は、「大学改革」とは全然違って「日常業務」の中でも実現可能な具体的な良い提案だと思いますし、それは、このフォーラムを見て私のように感じた大学教員も多数いるということを意味していると思います。すぐに具体的な成果が見えないからといって、「大学維新」だとか短気を起こさないで頂きたいと願っています。

     大学の研究者が小さな分野に閉じこもって既得権を主張しているだけ、という側面もたしかに否定できない部分があると思いますが、これから生物学の時代だといったような発想でいきなり生物学科を5倍にすればいい、というのは乱暴に過ぎると思います。今の遺伝子研究の隆盛が何をもたらすのかを正確に見とおし、アメリカに追随して競争に負けない様にすればいい、というような短絡的な見方ではなく、生物学の市民的教養を高めバイオ時代の市民を作る大学教育のあり方についてとか、生命倫理の研究とかいった、むしろ産業界からは見過ごされている側面を取り上げることの方が、マスコミの役割としては大切だと思いますが・・・。」


  • (団藤)「あなた達は知識人なのか、それとも、竹槍を持ってでも米軍の本土上陸を阻もうとした旧日本兵なのか」
    (辻下)「私たちの直前の世代の方々を「竹槍を持ってでも米軍の本土上陸を阻もう」と思うまで追いつめることになる時流を、あるいは推進し、あるいは放置した「知識人」のようには、できることなら、なりたくない。」