通信ログ
国公私立大学通信 2003.09.30(火)
http://ac-net.org/kd/03/930.html
前号:http://ac-net.org/kd/03/929.html
━[kd 03-09-30 目次]━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【1】「同意書」についての都立大学総長意見 2003.9.29
http://members.jcom.home.ne.jp/frsect_metro-u/doishonituite.htm
【1-1】9月22日大学管理本部における意見聴取に対す都立大学総長意見
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3113/siryousyu_030922soutyou.htm
【2】東京都立大学でいま起きていること―ご報告とお願い―
東京都立大学人文学部独 文学専攻教員一同 2003.9.25
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/2076/onegai.html
【3】アレゼール日本編「大学界改造要綱」【3-1】の紹介
「科学・社会・人間」2003年4号(No 86、2003.9.15発行)p44-52、
http://ac-net.org/doc/03/826-areser.php
【4】(投稿・匿名)[kd 03-09-26]の感想
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【1】「同意書」についての都立大学総長意見
http://members.jcom.home.ne.jp/frsect_metro-u/doishonituite.htm
2003年9月29日
東京都立大学総長 茂木俊彦
私は、9月22日付け「管理本部における意見聴取に当たって」において、
今般の新大学設置計画およびその実現に向けた準備過程に関して、いくつかの
「黙過できない重大な」問題点を指摘した。しかし、東京都大学管理本部は、
それらの疑問にまともに答えることなく、一方的に教員配置案を作成し、それ
に基づいて、所属長を通じ個別教員の「同意書」の提出を求めている。
しかし、この「同意書」の性格は極めて曖昧であるのみならず、さらに、そ
の内容を見るに、あたかも教員の雇用に関係するかのような紛らわしい形態を
とっている。私としては、こうした進め方には深刻な疑義を抱かざるを得ず、
この「合意書」について特に意見を表明する次第である。
記
1 都立大学の総長及び全教員は、憲法、教育基本法ならびに現行の都立大学
条例を始めとする諸法規によって、充実した大学教育サービスを提供すること
につき、学生ないし都民に対して直接的な責任を負うものである。この責任は、
いやしくも設置者の一存で左右されうるものではない。にもかかわらず、管理
本部は、今回、突然に「新しい大学の基本構想を実現していくための教員配置
案」を示し、教員1人ひとりに、この配置案、それを前提にした新大学に関す
る今後の詳細設計への参加、詳細設計の内容を口外しないことの3点に同意す
る旨を記した書類(同意書)に署名して提出することを求めてきた。このよう
なやり方は、本項冒頭に示した、教員こそが学生ないし都民に直接的な教育責
任を負うものであるという大学のあり方に関する基本的な理解とは、真正面か
ら対立・矛盾するものである。教員としては、これまで一度も具体的に議論し
たこともなく、知る機会すら与えられてこなかった「新しい大学の基本構想」
とそれを実現する「教員配置案」に包括的に同意するわけにはいかないのは当
然である。
2 今回の管理本部のやり方は、これまで同本部との協議を通じて誠実に議論
を積み重ねてきた大学内部での改革への検討構想を一方的に破棄し、「トップ
ダウン」と称して、まったく従来の経緯と無関係に、勝手に新構想を作りあげ、
その新構想を前提にして、教員配置案を示したものである。このように、大学
に事前に一切の相談もなく、教育責任を負うべき教員に十分に意見を述べる機
会も与えず、いきなり新構想に対して、包括的な同意を求めるというやり方は、
およそ大学行政にあるまじき異常・異例なものであって、到底、健全な市民的
常識とは相容れず、設置者としてあるまじき行為である。我々大学人としては、
従来の経緯からいっても、このような新構想をこのまま承認することはありえ
ず、新構想を基底とした教員配置案に、いきなり同意をせよと迫られても、同
意できようはずもない。
3 この同意書は、新構想への包括的な同意をとりつけると同時に、大学の教
員相互の議論すら抑制しようとする口外禁止条項まで含んでおり、常軌を逸し
たものである。管理本部がこの時点でこのような同意書を持ち出す意図を推察
するに、新大学の新構想への包括的な同意をとりつけつつ、今後の一切の異論
を抑圧する意図を潜ませたものとしか考えられない。設置者がそのような形で
個々の教員の異論の抑圧を図り、包括的な同意を迫ることは、憲法、教育基本
法を始めとするあらゆる教育法規の原理的趣旨に反する行為である。
4 今回の新構想というものは、単に学部とコースの枠組みだけが示されてい
るに過ぎず、肝心の大学院の構成やカリキュラム、研究条件の基本方針等はまっ
たく不明なままである。新大学における教育研究のあり方や、勤務条件など、
もっとも重要な事項に関する明確な条件の提示がないままに、個々の教員に、
改革の詳細設計への積極的な参加を迫ることは、実際上、不可能を強いるもの
でしかない。学生に学習権が保障されるべきなのは言うまでもないが、教員に
も「教授する権限と責務」が尊重されなければならない。今回の同意書は、こ
の教員の当然の権限をもまったく無視するものであり、いかなる意味でも合理
性を認めるわけにはいかない。
以上
【1-1】9月22日大学管理本部における意見聴取に対す都立大学総長意見
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3113/siryousyu_030922soutyou.htm
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【2】東京都立大学でいま起きていること―ご報告とお願い―
東京都立大学人文学部独 文学専攻教員一同 2003.9.25
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/2076/onegai.html
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2003年9月25日
東京都立大学の独文科で学ばれた皆さん
ドイツにかぎらず文学・言語学などに関心を抱かれている皆さん
東京都立の4大学が石原都政のもとで再編統合される、という話が
2000年初頭ににわかに持ち上がったことは、報道等でご存知の方も
多いかと存じます。
東京都庁(大学管理本部)と大学側代表との間ではこの間協議機
関が設けられ、新大学についての構想が検討されてきました。そし
て2001年11月には「東京都大学改革大綱」というかたちでその大枠
が示されています。
この「大綱」のなかには、B類(夜間部)廃止というような、人
文学部として強く反対してきた項目も含まれており、教育現場にい
る当事者としてはこれを最善の案と認めてきたわけではありません。
しかしそれでも、より良い都立の大学を創ってゆこう、という志は
共有されているとの前提で、大学管理本部と大学の間で継続されて
いる協議過程を尊重し、私たちも専攻教員定員の大幅削減というよ
うな案も甘受しつつ、それに協力してきました。そして2003年7月
には、この「大綱」に添ったかたちで真摯に検討されてきた構想が、
すでに大詰めの段階に到っているという認識でした。
それが突如、本年8月1日の都知事会見の場で、これまで積み上げ
られてきた案とはまったく異なる「都立の新しい大学の構想につい
て」という、都立大学総長すら直前まで知らされていなかった案が
発表され、それまでの信頼関係が都庁側より一方的に破棄されてし
まいました。
この内容をみるならば、現在の都立大学5学部を「都市教養学部」
という一学部に統合する、「単位バンク制」を導入して随意に卒業
要件を満たす制度を設ける、等々、大学側の意見をまったく無視し、
教育に実地に携わる見地からはとうていまともな検討にすら値しな
い代物と言わねばなりません。
この「都立の新しい大学の構想について」発表以降、東京都大学
管理本部は、東京都立大学の代表者である総長を教学準備委員会か
ら排除し、厳重な情報管制のもとで、都民、学生にも教育現場で携
わっている教員にもいっさい情報を明かさぬままに、2005年度新大
学発足に向けて計画を進めています。
さらに由々しき事態として、公式発表のまったくないまま、新大
学においては、現都立大学人文学部にある文学科5専攻(国文学、
中国文学、英文学、独文学、仏文学)が廃止される、とのかなり確
かな情報も流れています。都立大独文科はこれまで、日本のドイツ
文学・語学研究の分野で主導的な役割を果たしてきたことを自負し
ておりますし、今後も都立大の一専攻として教育・研究に貢献して
ゆく強い意思をもっています。もしも、「役に立たない」と見なし
た文学科を議論もないままに安易に人員削減の「資源」として抹消
するというようなことが起こるとするなら、ひとつの〈文化の死〉
として、歴史に残る愚行であり、遺憾きわまりありません。
私たちは、大学管理局によるこのような、民主的な手続きを無視
した密室政治による蛮行を認めるわけにはゆきません。
東京都立大学人文学部独文学専攻教員一同は、私たちの現在の考
えを以下のように表明します。
1.東京都大学管理本部は、都立の新しい大学についての構想を、
受益者たる学生、都民、そして現場の教職員たちの意見を採り入れ
たうえで、民主的な手続きによって進めることを求めます。
2.今後、現在都立大学に在学する学生、大学院生たちに、入学時
に保証されていた学習・研究の条件が保持され、不利益がいっさい
もたらされないよう、万全の措置をとるよう求めます。
上記2点にご賛同いただける方は、以下のアドレスまで電子メー
ルにてお名前とご所属・身分等をお知らせいただけるようお願い申
し上げます。下記ホームページ上にて公開させていただきます。な
お、お名前の公開を望まれない方はそのようにご明記ください。
電子メールアドレス ganbare_dokubun@yahoo.co.jp
URL http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/2076/
賛同いただいている方々です。(五十音順)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/2076/sandou.html
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【3】アレゼール日本編「大学界改造要綱」【3-1】の紹介
「科学・社会・人間」2003年4号(No 86、2003.9.15発行)p44-52、
http://ac-net.org/doc/03/826.php
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アレゼール日本編「大学界改造要綱」の紹介
先月(2003年7月)、国立大学法人法の成立した。
大学「経営」の効率化を使命とする国立大学法人制度は、
大学間・部局間の格差を拡大し、学問と教育の普遍性を
二次的なものとし学問の多様性を衰退させ、日本におけ
る学問の基盤を弱体化させることは、国立大学社会で早
期から認識されていたが、国立大学教員約6万人の中の
約5%の反対者と、1%にも満たない主に学長層の賛成
者以外、すなわち大多数の当事者は公的には沈黙したま
まであった。この現象は十分には理解されていない。ま
た、世論の無関心という現象も同様である。政策批判が
憚られる状況が国立大学で広がっていることや、マスメ
ディアが、独立行政法人化に伴なうリスクを真剣に説明
しようとしなかったこと、などが主な原因だと思うが、
それだけなのだろうか。
この本は、主として社会学の若手研究者のグループが、
人間社会についての洗練された洞察力と知見を背景に、
種々の調査結果に基いて、日本の大学の現状を醒めた目
で分析し、大学改革の議論の前提となっている「大学に
ついての常識」の欠陥や盲点を指摘しているが、上の現
象にもかなりの照明を当てているように感じる。
以下、アレゼール日本と、「大学界の分断」と大学教育
機会の不平等について、この本を通し説明し、最後に抜
粋を記載することで、この本の紹介とさせていただいえ
た。もしもこの本を読むきっかけとなれば幸いである。
なお、本書の後半は、フランスの高等教育界の現状を正
確に認識させる点で、貴重なものであるが、ほどんど触
れられなかった。フランスの国立高等教育機関の中で、
学生数は3%にすぎない「グランド・デコール」が高等
教育予算の30%を占有する、ナポレン時代以来の超エ
リートシステムが、高等教育全般に与えているダメージ
の深刻さは、エリート主義の導入を急ぐ日本の未来と無
縁なものではなかろう、と感じた。また、グランドデコー
ル以外の国立大学は、1988年以降、政府と4年の中
期契約を結んで自由に使える予算を手にすることになっ
ていたことを知らなかった。文部省もかなり詳しくこの
制度を研究したそうだが、この制度について国会でも言
及しなかったのは、実施後15年を経過した現在、種々
の問題が表面化しているためではなかろうか。
1. アレゼール日本について
この本全体は、フランスの社会学者ブルデュー
(1932--2002)が始めたフランスの大学改革運動
ARESER = Association de reflection sure les
ensegnements superierus et la recherche (高等教育
と研究の現在を考える会)と連帯して,2003.4.6に設立
された「アレゼール日本」(高等教育と研究の現在を考
える会、)の設立宣言と考えられる。
ARESER の理念は、本書の後半に訳されている「危機に
ある大学への診断と緊急措置」の序文にある次の一節に
要約されている。
(以下「・・・」は略した部分を表す。)
無関心からの脱却 p248. 「・・・私たちはたしかに
政治の領域にまで踏み込み、少くとも紙の上では執行機
関や立法機関に取って代わり、立法者として振る舞うつ
もりである。しかし私たちは、非常に厳格に、私たち自
身の問題とそれを解決するための私たちの武器、つまり
研究という武器をもってそこに向う。言いかえれば自律
した知識人として行動する。・・・私たちは、十分に耳
を傾けられもせず理解もされない専門的分析か、あるい
は、空しい戦闘的態度かという二者択一を拒否しながら、
ここに新しいタイプの政治的行動を立ち上げようと試み
る。個別の研究や集団での討論・検討を通して、教育シ
ステムの諸傾向について獲得することのできた知識を拠
り所にしながら、大学に関与しているすべての人々、学
生、教員、職員に対して、集団的な動員を提案したいと
望んでいる。すなわち、私たちが素描する方針を起点と
し、私たちが提案する組織機構(とりわけ「大学議会」)
を通じて、入念に作り上げるべき計画への動員、一言で
いうならば、真の教育システムの合理的自主管理である。
馬鹿げた野望であろうか。しかしそのように思う人々は、
彼らにそう信じ込ませる力(とりわけ慣習の力である)
が何なのかを自問してみるべきである。彼ら自身がそう
であるように、一つのシステムの中に組み込まれ、それ
について思考するためのあらゆる道具を持っている人た
ちよりも、官庁、役所、中央行政などの公的機関のほう
が、どうして彼らを合理的に管理するのにふさわしのだ
ろうか。」
次に、アレゼール日本の理念に関連する部分を紹介した
い。
1980年代以降の日本の「大学改革」は、大学界内部
の種々の不平等構造を深めつつあるが、アレゼール日本
は、これを乗り越えて大学界全体の将来の構想を関係者
が共有することを重視し、「大学関係者が全国のあらゆ
る大学に共通して適用可能なルールを文部科学省の姿勢
から独立して作り上げること」(結論 p164)を目指し
ているように思われる。「競争的環境」にある個々の大
学の改革努力をいくら積みかさねても国家からの大学界
の独立性は出現するはずはなく、アレゼール日本の目標
は、国公立大学の法人化後には、ますます重要度を増し
ていくだろう。
また、「保守的な悲観論と素人の理想主義をともに拒み
ながら、高等教育に絶望しているすべての人に、あらた
な行動を起すための理論的根拠を与えたいと考えている
(p328)」とあるが、「大学界」という言葉を説明する
次の一節は、理論的根拠の骨格を成す理念を提示してい
ると思われる。
p166 「・・・ブルデューの社会学は根本的に社会の変
革の構想と結びついているが、ブルデューのシャン(界、
または場)の概念は、その中でとりわけ重要な意味を持っ
ている。端的にいって、秩序の維持と変革の主体的条件
を分析しようとするのが、シャンの概念の意義である。
たとえば、『ホモ・アカデミクス』では、大学人が所属
し、作り上げている関係性が、「大学界」の概念によっ
て把握されることにより、様々な序列化の論理によって
複雑に差異化され、互いに闘争する大学人を分析の対象
とすることが可能になっている。・・・現在の日本の
「大学界」は分断され、自律性や自己動員力はほとんど
失ってしまっている。現在大学人は、「競争的環境」の
もとで「烏合の衆」であることを強いられている。大学
人が自己のありかたを自己の決定のもとにとりもどし、
同時に真の意味で社会的な責任を果していくためには、
集団間の先鋭な利害対立や争いが、公共的ルールにもと
づいて争点化され、解決されることが可能な一つの場、
すなわち公共空間の再構築として、大学界の再建が構想
されなければならない。」
なお、国家と大学の関係については、従来の切口に捕わ
れていないところが筆者には印象的であった。
たとえば、藤本一勇氏は「個や私の尊重が大事であれば
あるほど、主要な調整装置の一つとしての国家の役割を
軽んじることなく、すなわち、国家か個人か、あるいは
国家か市場かではなく、国家を個人に根づいた公共性の
ための装置として思考し、利用し、絶えず再構築してい
く必要がある」(p60)と述べ、国家と大学の新しい
関係を築く可能性に読者の注意を向けている。
また、櫻井陽一氏は「支配者側は、競争が支配秩序を維
持・再生産しつつ、その再生産される秩序を正当化する
ことを期待する。被支配者は、公正な競争を求め、競争
の条件における不平等を告発する。この対立が教育政策
に影響を与える水準に到れば、支配者側自身が教育シス
テムを民主化し、特権維持装置としての教育システムを
破棄していこうとする可能性はあると考え、この可能性
の拡大が、運動の課題としている。」(p55)と述べ、
政策立案者の意識改革をもたらすことを射程に置いてい
る。
もちろん、国家と大学の間にある圧倒的な力と情報の非
対称性を考えれば、反国家でも親国家でもない「非国家」
のスタンスを保ち続けることは容易なことではないと予
想されるが、「左右対決」とは異質の非国家的活力の台
頭の一例として、今後の発展が嘱望される。
2. 大学界の分断、そして、大学教育機会の不平等
大学界内部で独立行政法人化反対運動が広がらなかった
のはなぜか。
これについては、大学界が種々の格差・差別(帝大/地
方国大、国大/私大、常勤/非常勤、理系/文系)によっ
て分断化されていて、法人化に対抗する際の大学界全体
の共通利益というものが見えないからだ、と指摘してい
る(「大学改革論」批判の視座 p42 )。すでに歴然と
した格差・差別が現実にある以上、独立行政法人化が大
学の格差をさらに拡大させるとしても、そのこと自身は
反対運動を拡げる契機にはならなかった、ということで
あろう。もちろん、法人化政策が掲げられた当初より、
大学・部局・学科・個人等のあらゆるレベルに「温度差」
があって、独立行政法人化について大学としての統一見
解を形成できないことは指摘されていたが、この本は、
この障害の諸相を正確に認識させる力がある。
大学人の間の不平等に関連して、水島和則氏は次のよう
な趣旨の指摘をしている(p105):常勤と非常勤の間に
ある身分差別体制の批判が、市場原理による身分制の打
破という政策への期待となって独立行政法人化の容認を
もたらすが、競争原理は専任の諸権利を非常勤の水準に
引き下げる下方的解決しかもたらさない、と。しかし、
実際には下方的解決に向けて事が進行し始めている。大
学界内の不平等構造自身が、下方的解決への進行を押し
とどめるための力の結集を困難にしていることは、大学
界の悲劇的様相の一つである。
文部科学省や国立大学協会を含めた大学関係者が、事あ
るごとに表明している「高等教育費を日本の経済力に相
応しいレベルに上げよ」という要請は、常勤・非常勤の
間の格差の上方的解決の要請も含んでいるが、実現性が
乏しいお経になってしまっている。
この、至極当然のような要請は中央省庁では一顧だにさ
れない。その実現を阻む論理は何か。
一つは1970年代以降、中央省庁でコンセンサスがで
きているらしい「高等教育受益者負担原則」であろう。
この原則は、国民の意見を聞かずに、予算削減の口実と
して勝手に財務省が決めた原則で、官僚の横暴の典型と
筆者は思ってきた。
しかし、「社会階層と社会移動SSM」調査と学生生活調
査に基づいた研究(「大学教育機会の不平等」の節参照)
によれば、日本の大学進学率が、家庭の所得水準・親の
学歴・職業に強く依存し、大学教育機会が平等であった
ことはない、という。この不平等に大学界も文部科学省
も無関心であり続ける限り、財務省の「高等教育受益者
負担原則」には広汎な国民的支持があると言えなくもな
い。
さらに、「大学教育機会の不平等」の節では、地方国立
大学が相対的に低所得層に進学機会を提供していること
も明かにされており、地方国立大学の再編縮小を辞さな
い最近の大学改革は、教育機会の不平等を拡大するもの
であると批判されている。また、同じ節にある、「広く
共有された反・大学のムードの根拠は、大学教育機会の
不平等にある」のではないかとの示唆も、ある程度の信
憑性がある。
なお、次の指摘も筆者には意外性があった:東大・京大
などの旧帝大では学生の家庭の所得統計は、平均が高い
だけでなく分散も大きく、旧帝大も教育機会の平あ等化
に一定の役割を果していること、また、低所得者に大学
教育機会を提供している私立大学も多いこと。これらの
認識が大学政策立案者に欠如しているとすれば、大学教
育機会不平等の拡大を招く懸念がある。
さらに、1999年度の奨学生数は23万人、年間奨学金総額
は634億であるが、4 年前より20%ー30% 減少している
(p128)という点も、教育機会の不平等を拡大するもの
である。
以上のように、大学界全体が、日本社会の停滞の根にあ
る教育機会の不平等問題を失念し、その不平等の拡大に
熱心であることは、大学の社会的支持基盤の縮小を加速
するだけでなく、日本社会の衰退を加速するものであろ
う。早急に、大学政策の中心に、大学教育機会の不平等
の解消を据え、奨学金を拡充させるとともに、低所得家
庭の子女を多く受けいれている国公私立大学を評価して
資源配分に反映させるというアレゼール日本の提言
(p80 提言2)を含め、種々の方策の実現の検討を始め
ることが望まれる。
3. 抜粋
最後に、筆者には啓発的であった部分のいくつかを抜粋したい。
#(次号掲載)
結語
日本における高等教育研究は、教育行政の視点からのも
のが多く、たとえば、市川昭午著「高等教育の変貌と財
政」(玉川大学出版 ISBN: 447240141X ; 2000/03)は、
高等教育政策にかんする主要テーマの論点を整理してい
るが、政府内部で行なわれてきた議論を整理したもので
あるかのような印象を受ける。もしも、実際にそうであ
るならば、現行の大学政策について、すぐに思いつくよ
うな批判や提言は、政府内部の議論では論破されていて
影響を与え得ないであろう。たとえば、大学教育機会の
不平等の是正のための諸政策は、政府内部、特に財務省
内では、単に所得再配分政策として検討され、他の所得
再配分の手段と比較されて退けられているであろうこと
が推測される。憲法の規定とは違って、行政が大半の政
策を実質的に決めている日本では、中央省庁内部での議
論のパターンを変えることも重要であり、実証的な検証
を重視し大学の現状を正確な認識を最優先する高等教育
研究グループとしてのアレゼール日本の出現は、大学行
政への良質の効果的影響力を及ぼしていくことが期待さ
れる。
所で、もしもこの本が数年早く出版されていれば、大学
関係者が大学界内部の矛盾を正確に認識し、それを視野
に入れた現実的な対案を、国立大学独立行政法人化政策
に対し構想し得て、賛同者や共感者を大学界内外に拡げ
ることができ、異なる流れとなったかも知れない、と感
じた者は筆者だけであろうか。しかし、良きことに遅す
ぎるということはないだろう。アレゼール日本のような、
大学界の特性を活かした動きが芽生え成長し広がってい
くことが、日本の大学界が国家や社会から内面的に自立
していくプロセスそのものではなかろうか。
なお、この本は、大学界を真に良くする大学政策の立案
や評価には、大学界の現状の正確な認識が不可欠である
ことを例示している。日本の大学界は激動期に突入し、
今後10年〜20年にどのような種類のことが起きるか
予想がつかない。社会学的・財政的記録が広範に詳細に
継時的に行われ、科学的政策評価がリアルタイムに進行
し、大学界崩壊の兆しが明確になった場合に、迅速な軌
道修正を社会に説得力をもって訴えることができるよう
な体制を構築していることが必要であろう。アレゼール
日本は、そのような動きを先導するものとなることが望
まれる。
とは言っても、専門以外のことには余り関心を持ってこ
なかった筆者には、この本を貫く思想的な高みや社会学
的視力について感嘆を抱く以上のことができない。アレ
ゼール日本に、一市民として声援は送れても、大学界の
住人として何ができるのか、という難問が筆者の中に未
解決なまま残っている。
なお、アレゼール日本と、意図において共通するところ
がある、Academia e-Network の構想http://ac-net.org
が主として理工系の者の間で3年前よりある。いわば、
大学界という概念を実体あるものとする「シャン」を現
実にするための社会情報構造の構築、といったタイプの
視点を越えることは、少くとも筆者の中では困難である
が、同じ意図を持つ者が、種々のアプローチを試みるこ
と自身に積極的な意義がある、と考えたい。
(2003年8月26日 辻下 徹 記)
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【3-1】アレゼール日本(高等教育と研究の現在を考える会)編
「大学界改造要綱」藤原書店 2003年4月刊
ISBN 4-89434-333-9, 本体3300円
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book433.htm
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【4】(投稿・匿名)[kd 03-09-26]の感想
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> 【3】国大協以外の大学間連携の必要性について
> 国大協執行部は、「法人化しなければ、民営化される」というお
>題目を唱えるだけで、譲歩に継ぐ譲歩を重ねて、結局は民営化とほ
>とんど変らないところまで来ました。
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(感想)全くその通りと思います。静岡大学の就業規則案をみる
と、少し長くかかる病気にでも罹ったら解雇されるのではないかと
いう気がします。
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編集発行人:辻下 徹 tjst@ac-net.org
国公私立大学通信ログ:http://ac-net.org/kd
登録と解除の仕方:http://ac-net.org/kd/sub.html