Weely Reports indexコラム目次国立大学独立行政法人化の諸問題

2001.11.17
Number of access to this page since 2001.11.17...
Weekly Reports No 75 コラム:大学を考える

「東京大学定年65才まで延長」に関しては徹底した理適化を添えて

馬場 理

2001.11.15 Ver 1.02

 周知のとおり、およそ一年半ほど前東京大学教官の定年延長がなされ、東京大学では65才までの勤務が可能となった。この延長に対する当初のわたしの考えは、「議論に値しない暴論である」というものであった。理由は単純明快である。すなわち、私自身を含め、第二次ベビーブーマーの雇用が、大学、それから、社会全体にそうなのであるが、あまりにも粗雑で、行き届かない議論によって不安定であった、そしていまでもそうであるが、そのような中で、定年延長など許しがたい、というものであった。このことに、いまでも大きな変化はない。(わたしの出身大学の一つである弱小私立大学では、ここ数年間、きわめて急進的なre-structureがなされていた。これは、定年を延長するということが、仮に望ましい理想であると仮定しても、それをゆるさない社会情勢があるという、現実に抗しきれなかった結果であったと、今思えばそんな気がしてならない。)

 この延長を強行した人物は、蓮實重彦前東大総長であった。わたしはこの延長に対する反感とは裏腹に、前総長の書かれたさまざまな文章に対しては深い尊敬と、共感とをつねに感じていた。また、それら文章からわたしは、同総長こそは信頼に値する深い洞察を持った人物であるという判断をしていた。従って、この延長問題はわたしを悩ませた。すなわち、この矛盾をどのように理適化すればよいか。ここで矛盾とは、深い洞察を持つに違いないと思われる人物のおこなった判断が、どういうわけか理に適わないと思える状況、の事をさしている。また、理適化とは、理に適うように矛盾を無くして行く事を意味している。本来この意味をもった語として合理化という語が存在するが、いまや、十全な機能をしない。合理化といえば、経費や人員を削減する事を象徴する言葉に成り下がってしまったのだから。

 全ての世代に属する全ての魂が文明のもたらす豊穣さを等しく享受できること、と、ひとつ前提を置こう。ここで、世代は、過去、現在、未来、いずれの世代も含み得るとしよう。また、魂は意識、あるいは個と読み替えていただいて差し支えない。この前提のことを全個主義と呼ぼう。全個主義は、いままで民主主義と呼ばれて来たり、共産主義と呼ばれたこともあった。取りたててその内容に変化はないが、その主義主張を適切に表すように同一子を定めたところのみが新たな点である。良く使われる言葉の罠として∀と∃の読み替えという手法がある。すなわち、なにかが存在することを主張し、それをもって全てがどうであると言い替える手法である。民主にせよ共産にせよ、その理念を現在まで完全に達成しえた主体が存在しない主な理由はこの罠にある。その罠を避ける為にこのような同一化をここに行った。全個主義を別の言葉で例えば、少なくとも60億の現世にある魂とすでに他界した魂を尊重することと読み替えても大きな問題はない。何かを理適化しようと考える以上、なんらかの理がなければはじまらない。このような理に立つとき、何が理適で、何が不理適か。

 まず簡単に過去の世代と未来の世代について触れよう。過去の世代については、その魂の記録、すなわち歴史を大事にすること、それから、墓参りのようなありふれた形での尊重を大事にすることがまずは必要だろう。未来の世代については改めて語るほどのことはなにもないと信じたいが、あえて一言添えれば、現在の世代が、未来に対して負の遺産を残さないようにすること、この一言に尽きるであろう。

 現在の世代についてはいくつかの層にわけて論ずる必要があるだろう。壮、中、若、幼と仮に四層に分けたとしよう。幼に関しては、未来の世代とほぼ同じ議論で良いと思うが、同時に、教育過程の問題が付随する。教育課程は6334で良いだろうか。壮については、過去の世代に近づきつつあるが、過去ではない。問題を難しくしていることの一つは、人間の生命が平均80余年までも引き伸ばされてしまったことである。太宰の例に見るように、自身の誕生自身を呪い、若くして自ら命を絶つ例もある。この通り過酷な社会に、生きなければならないという現実が80余年間強いられるという場合もあるのである。60才で定年し、いつもらえなくなるか分からない年金に満足せよなどという考え方は確かに酷である。すでに不幸にもリストラという語に象徴される無配慮な人切りにあってしまった人も尊重されるべきである。中は社会のありかた自体を決定づける中核となるべき世代である。いつまでも、壮が意見をしなければならないということはないと思う。若は壮、中からみれば未熟かもしれないが、未熟だからといって、十分な大人ではないと考えるのは大きな誤りである。自分自身が、若だった時代を思い起こしてほしい。試行錯誤の中で、間違いをたくさん犯しながら、なにかを見つけ出していった過去が、間違いなくあるはずである。

 そもそも、魂に完成などありえないのである。魂の本質は、悲しみや絶望、喜びや共感といった起伏の中にある。このような上昇と下降を繰り返しながら、絶対的虚無、頽廃、絶望を回避しつつ成長を続けるのが魂の本質である。65才定年延長の利益を享受する魂には、せめて、ここに書かれた程度の理適性をもって少なくとも10年は時間軸を戻した改革を期待したいものである。


*馬場 理(会社員31才)
wm7o-bb@asahi-net.or.jp