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Weekly Reports No 58 コラム:大学を考える

国立大学とは何であったのか?

藤田 博美

2001.6.21

世に「独立法人化をすれば大学は良くなる」という風潮があるらしい。我々 個人個人が変わらない限り制度などいじっても良くなる訳ないなどと考えてい る自分が居る。に、しても国立大学はその使命を終えたと一方的に宣言された ときに、うまい反論の言葉が出てこない。(いや、これは国立大学でなくても いい。日本の大学は使命を終えたという宣言であったとしても、やはり反論の 言葉がうまく出てこない。) そもそも、国立大学とは何であったのか、が、実は不勉強な私には判らない。 戦後、焼け跡の何もない時期に、物質的に何もないがゆえに抽象的な文化をこ れからの日本の生き残る道にしようと考えた人が居たのかもしれない。それを 象徴するのが各々の都道府県に一つづつ設置された国立大学であったのかもし れない。かつて、ある田舎町の国立大学の古びた体育館に古びたプレートがは め込まれていた。ブラジル在住の県人達が、故郷に大学が出来ると聞いて資金 を応援してくれて建設されたのがこの体育館であると。古びたプレートと体育 館は故郷に文化の中心をと期待する遠く離れた人々の心があるゆえに輝いて見 えた。そういう時期があったらしい。 68年という時代があった。それまで、まがりなりにもエリートでありえた大 学生に、一般大衆としての未来しか準備されていない、しかしながら大学の教 員はその大衆化した現実から離れたところにしかいない、そのようなことへの 若者のプロテストであった、と結論した本を見かけたことがある。歴史として 正しいかどうか、私は知らない。 そして、もしそれが歴史に対する正しい見方の一つであるとするならば、学 生の問いかけに対して大学は何を答えたのだろうか?恐らくは答えなかった。 あるいは答えられなかった。政府の主導した機動隊を使った正常化に載っかっ ただけではなかったのだろうか? 70年代、受益者負担論による国立大学の授業料値上げが始まった。多分、そ れにも載ってしまった。今、国立大学は受益者負担論の毒が全身に廻ってしまっ ているのではないだろうか?受益者負担の向こうには抽象的な文化の輝きも何 もなく、あるのは就職に有利、社会で役に立つ、だから授業料を払っているの だ、そういう「社会」からの目しか残っていなかったのではないだろうか。 さて、あの頃から30年ほど過ぎて、大衆化社会では受益者負担が当然と認識 されるようになったこの日本で、我々に文化の重要性、抽象的な思考の大切さ を社会に対して説得できるだけの言葉が残っているのだろうか、30年の沈黙の 後で? 研究についてなら幾らでも語ることは出来る。あるべき研究システムについ ても語ることは出来る。しかしながら、文化装置としての大学についての理想 を社会にどう語りかければよいのか、ひたすらにおろおろするばかりである。

北海道大学大学院医学研究科社会医学専攻
http://www.med.hokudai.ac.jp/~hyg-w/