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2001.6.24
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Weekly Reports No 58 コラム:大学を考える

=科学を金もうけの道具としかみなさない愚行で

日本の科学は衰退する:科学史に照らして=

渡辺 勇一

2001.6.24

 ひと昔前なら、今すさまじい勢いで「新産業創出」の言葉のもとで進行している産学協同の動きがこうも簡単に許されなかったと思うが、現在の大学は全く異なってしまっている。なぜ「学問の自由」が必要かを、自らの学問に重ねて違和感なく主張できる人間がどのくらい存在しているのだろうか。もっとも多くの研究者は、そんなスローガンに関係なく、いかにその自由が圧迫される状態になっても、自分の研究の楽しみをどこかに見出し、したたかに生きて行く積もりなのかも知れない。

 安斎育郎氏は、その著「理科離れの真相」(朝日新聞社)の中で、バブル時の、政府高官の「日本の科学技術はもう十分だ」という発言を示し、この時代に理科履修のための授業時間が激減した事実をあげている。
 バブルが崩壊した後、今も低迷を続けている現在の日本において、財界と為政者が科学を推進するシステムに極めて強い支配力を発揮し続けているのは、上記の事情の裏返しである。今回発表された「大学の構造改革の方針」には、尾身氏が表した「科学技術立国論」の目指した方向が、より粗野に凶暴な形で表出している。簡単に言えば、科学に金を生ませるために相当な投資をしたのだから、これまでの形を許さない、利益をもたらす企業の如くシステムを全面的に変えろという脅迫である。科学技術基本計画に基づく17兆円(1996-2000)の投資が始まった翌年(1997)には、遠慮がちに任期制法案だけが国会を通過したが、今や大学組織自体の存亡までが語られるようになった。
 このような流れを受け入れる論調の根にある感覚の一つに、「国の財政悪化」が顕著だから仕方がないというものがある。筆者の周囲でも文系の教員にこの意見が多いが、理系の教員とて例外ではない。「金が不足しているから、国立は現在の様に贅沢はできない」という論調は、ほぼ百の国立大学を維持するための「国立大学特別会計繰入金」全体(今年度は約1.6兆円)を上回る3-4兆円台の予算が、新産業創出を目指して1996年から毎年使われている事をみれば吹き飛んでしまう。

 これほどの金を注ぎ込んで何が得られたかよりも、費やした事自体が、それこそ只では済まない事態を生んでいっているのである。これらの巨額の予算の下に、研究者を競争に駆り立てれば、それで財界が望む成果が得られるという自信を財界人と為政者達はお持ちなのだろうか。経済が悪化した時だけに科学を推進するシステム丸ごとを無理に改造しようとする行為は、大変危ういものだと言える。学問を日々進める者として、実際の科学者の発言からその無謀さを示してゆきたい。

 まず、科学で一定の成果を望みたいのであれば、無駄と思える人数、組織は欠かせない事である。BBC放送が著明な研究者に行ったインタビューを本にまとめた、「科学に魅せられた人びと」(L.Wolpert & A. Richards 共著、東京化学同人、1991)には、科学の成果の予見がいかに困難であるかが繰り返し示されている。

「ある問題を解こうとやりはじめて、突然にわき道に興味ある分野が開けていることを発見し、それがずっと実りのあるやりがいのあるもののように見えればそちらに進んで行くことには心配しませんね。(中略)そしてこの予期しない道、予期しない枝分れが、私達を非常に実りある、驚くべき道へと導いてくれるのがわかるのです」(マイケル・ペリー)p.79
「アイデイアがどのように浮かんでくるかということは、長い時間をかけて論文を読み、話し合い、考える必要があるということを除けば、はっきりしないものです」(フランシス・クリック、ノーベル賞受賞)p.147
「研究の98%は何も生み出さない事を知っているが、困ることはどの98%なのかがわからないことだ」(ジョン・ベイン、ノーベル賞受賞)p.280
 他にもあるが、この辺りで引用をやめよう。研究の道筋がいかに予測できないかということは、研究を推進する部隊を選りすぐって少数にすることが、いかに危険であるかを意味している。現在進められている、競争と選別は、科学史を知らない人達の政策であろう。また評価に応じて予算を配分しようとする行為も同様に科学史に無知な人の突き進む道であると言える。

また、研究者というのは、弱みを見せないけれど、大変弱い精神を持っている。研究の過程で常に高揚した精神と自信を持ち続けられるものではない。やはりノーベル賞を獲得している、レヴィ・モンタルチーニ女史は、成果が得られる前の自信のなさを;「私は自分の研究の見通しに不安を抱いていたので、ルリアやドウルベッコに相談に行ったり、幾晩も眠れぬ夜を過ごしたりした」と語っている。

(美しき未完成、女史の著作、平凡社)

 次に競争について言及したい。原典は再び「科学に魅せられた人びと」である。

「私たちは、最初の一時期、公式にはライバルと考えられていましたが、二人ともまったく行きづまったとき、一緒に行動しました。(中略)最後には、私達は共同で論文を出したのです」(ドロシー・ホジキン、ノーベル賞受賞)p.120
勿論、「ノーベル賞の決闘」(ウエイド著、岩波現代選書)に描かれた様に、最後まで競争を続けながら、視床下部ホルモンの構造決定を二度も争ったギヤマンとシャリーの例もあるが、果たして彼等の間に競争というものが必要だったのか。この点にゆいて、著者のウェイドも、「彼等二人が実験結果や研究方法のコツを知らせ合って共同で仕事をしたならば、進歩はずっと速かったのではなかろうか」(p.12)という疑問を投げかけている。

 さて、最後に今後の日本の研究者を育てる「教育」についてである。研究は論文の数などで、定量化しやすいために、研究者は選別と競争のもとでの予算獲得の為には必死になり、止めどもなく教育のための時間を減らしてゆく。この事情は研究者以でなくとも簡単に理解される事ではないだろうか。しかし現実は、教員のFD、カリキュラム改革、などが評価の対象になるために、教員達は相当な時間を費やして、「改革」WGのような活動を行うのである。このような活動が全て無駄というのではないが、まず制度を変えて評価を良くしてもらおうとする傾向は強く、授業の内容は変わらないことになる。結果はどうあれ、「授業そのもの」へ注ぎ込むエネルギーと時間が大きく削られてゆく。それだけではない。評価は研究と教育だけではない。公開講座など地域社会への貢献も、同様に評価項目の大きなものであるから、そちらへも努力が必要となる。
 上記の様にして、「科学技術立国」なるものを目指しているはずの、我が国の教育現場では、あれもこれもの作業の増加の中で、生気を急速に失い続けてゆく教員達による、質の低下した(あるいは改善されないままの)講義が大多数を占め、一部の良心的な教員の講義などは、焼け石に水という状態になるのである。

 独立行政法人になれば、現在数年おきに多大な努力を払って準備している、評価目標に関する書類の他、企業会計に基づく予算・決算書にも手を取られる。現状の教員の志気の低下どころではないのだ。 

 大学には、「必要な時には社会に警鐘を鳴らす」という重大な役割があるはずである。辻下氏の「独自の価値観に立ち社会にとって掛け替えのない存在となることを志向し進化を続ける」というのは、そのような理想を実現する大学の姿を示したものと考える。しかし現実には、教育と研究を自らの判断で推し進めるという、警鐘以前に大学が持たねばならぬ基本的機能が危うくなっているのである。財界・政治家を問わず、日本人全体にとって、この事がマイナスにならないはずはない。科学技術のレベル低下に気づいて研究教育のシステムを修復するためには、どれだけの時間が必要となるのだろうか。それよりも元に修復できるのだろうか。

新潟大学理学部生物学科