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三、大学における学問研究は、人間の尊厳が保障される平和で豊かな社会の建設に寄与しなければならない。そのためには、他大学、他の研究機関、行政機関、産業界、地域社会、国際社会など社会を構成する広範な分野との有効な協力が必要である。 学問研究は、ときの権力や特殊利益の圧力によって曲げられてはならない。社会との協力が平和に寄与するものとなるために、われわれは、研究の自主性を尊重し、学問研究をその内的必然性にもとづいておこなう。 学問研究の成果が人類社会全体のものとして正しく利用されるようにするため、学問研究と教育をそのあらゆる段階で公開する。 社会との協力にあたり、大学人の社会的責任の自覚に立ち、各層の相互批判を保障し、学問研究の民主的な体制を形成する。 |
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2001年から施行される中央省庁再編――政策評価の強化、人事の能力主義の徹底、独立行政法人化、内閣機能の強化、文部科学省の設置、内閣直属の経済財政諮問会議や総合科学技術会議等――の体制のもとで、国策としての学術・科学技術・高等教育政策が大学に集中するならば、大学はその下請機関となり、真に国民や世界、未来に開かれた社会的役割・責任を果たすことはますます困難となる。 | 総じて、政府の大学政策は、「科学技術創造立国」「大競争時代の到来」を口実に産業界への大学の従属化、「大学の企業化」を推進し、大学を国民から遠ざけ、競争・管理を徹底し、その共同・自治を破壊するものであり、大学本来の可能性を閉ざすものといわざるをえない。 国立大学は、憲法・教育基本法の精神に基づき、教育の機会均等、各分野の優れた人々の育成、基礎的・長期的研究や学術の均衡ある発展などを通して社会に大きく貢献している。しかし、反面、施設設備の劣化、許認可、人事、財政などによる政府の大学統制や財政支出の抑制により、国立大学の機能が低下し、その真価が十分に発揮されていないことも否定できない。これらの問題を着実に解決する大学改革こそ求められている。 |
「通常の国家行政組織が「国民のために」あるべきだというのと同じ意味で、国立大学が「国民のために」あるべきだというとしたら、独法化や現在進行中の大学「改革」が抱える問題点がかえってみえにくくなるのでないか。」(p67)「国立大学の独法化における最大の問題点とは何か。それは、国立大学の教員・研究者ひいては在籍する学生の「学問の自由」と、そのための教員人事権や教育内容決定権等の「大学の自治」(憲法23条)が根底から侵害されることである。..真理の探求は、本来的にかつ本質的に自由であり、また、自由であらねばならない。そうした個人の主体的・自発的な意思で自由に追求される学問が長い歴史の中で人間社会を、とりわけ学術文化を支え発展させてきた。そして、その学問の自由は、沿革的には大学の自由(academic freedom)と同義のものとして、あるいは大学の自由を中心として発展してきたのである。国立大学という国の組織は、通常の国家行政組織と異なり、この学問の自由とそのための大学の自治という憲法原理に支えられている。大蔵省の自治とか郵政省の自治というものは、憲法上認められていない。しかも、国立大学は国家権力が設置する大学であるが故に、とりわけこの憲法原理には敏感でなければならない。そうだとすると、この原理こそが、国立大学の独法化に対する対抗原理なのであり、国立大学は、この原理の保障のもとで、「国民のための」大学を全体的・自律的に追求すべきものなのである。」..
「こうして、「国民のための」国立大学であるためには、「学問の自由」と学部自治を内実とする「大学の自治」という憲法原理が前提でなければならないことが、まず理解できるだろう。」(p68)
「このように見てくると「国民のための」大学とは、容易に語られるべきことではなく、人間の歴史と未来とを見据えた深い賢慮に支えられるべきものであることがわかるだろう。」(p70)
(p14)「国立大学独法化論・科学技術創造立国路線は、「国立大学に於ける教育研究の社会的存在意義は産業界への貢献によって確認される」、「研究資金を集中的に投入すれば高い研究成果が得られる」、「競争と経済的報酬は研究へのインセンティブとして働く」などの命題が常に「真」であるという前提に立たなければ成立しないだろう。こうした怪しげな命題が見え隠れする大学改革論は、大学関係者はもとより、国民に対して説得力をもちえないだろう。産業界の技術開発とは異なる次元での、基礎的・基盤的研究を大学が担ってこそ、科学技術の安定した調和ある発展が望めるのではないだろうか。また、産業界の需要とは無縁な分野にも人類にとって必要な学問が存在しており、そこへ「効率性」基準を適用することは無意味以上に愚かな振るまいである。産業・経済の世界と教育研究の世界とではそれぞれ異なる固有の論理が存在し、それを尊重しなければいずれは共倒れになることが認識されなければならない。 また、大学改革と言いながら、大学における教育を人材養成の観点からしかとらえようとしない、人づくりへのイマジネーションの貧困さには驚くばかりである。知識や技術に手足を付ければ人ができ上がるわけではなく、それはせいぜい自走式コンピュータであろう。知識や技術をコントロールする人格を育てなければ人づくりは完成しないのである。同じことは研究者へのインセンティブの与え方にも言える。ポストや研究費を競争に委ねたり、経済的報償の増減によって人を動かそうという発想には、研究者が教育研究に打ち込む内的動機に対する洞察力の低さを感じてしまう。いま政策立案者に求められることは、まず第一に、人と人づくりに関する豊かなイマジネーションをもつことだろう。
私は、高三の夏、丸善前の歩道でたまたま受け取ったチラシで、管理運営組織の中枢化(副学長、参与会)や教育と研究の組織的分離などを内容とする筑波大学法案が国会で成立しそうになっていることを知った。このとき、教育行政学・教育法学を学びたいという思いは決定的になり、理系志望だった私の進路はこれを境に大きく転換した。結局法案は成立してしまったが、チラシをくれたおじさんの精神は、4半世紀を経て今やおじさんになってしまったかつての高校生に受け伝えられた。
政財官が主導する大学制度改革は、国立大学だけでなく日本の大学全体を包み込む形で展開しはじめている。これは筑波大学法案の比ではなく、戦後の大学改革の中でも最も大規模でラジカルなものだろう。教育研究の意味と在り方、文化と知と技術の質、人の価値と人づくりの意味など、人間的価値のおそらく最も深く重い部分に深刻なダメージを与える可能性が高い。これに今どう対峙するか、そして次の世代にどう繋いでいくか、私たちの世代が試されている。
通則法の適用を阻止する歴史的使命
通則法の立法趣旨と大学の理念が根本的に矛盾しているので、 特例措置でこれを解消できない。 通則法は国家統制の悪法であり、これを大学に適用すると、それは歴史的な悪法となる。これは、単に国立大学だけの問題ではない。 市場原理により採算のとれない基礎科学や地方大学は衰退し、長期的に見て歪な社会を招来する。もとより、大学は時の政権に奉仕するものではなく、より普遍的な立場から未来の歴史に責任をもたなければならない。 今、必要とされていることは、国公私立が担う高等教育に国が他の国並みの財政措置をすることであり、大学が自主・自立ができる 真の法人格をもつことである。 そして、大学人が本来の仕事である教育・研究に専念できるようにしたい。 そのために、通則法の適用を阻止する歴史的使命が我々にあり、また国大協はその本領が試される、最初で最後の時である。この責務の遂行こそ、大学人の最後の矜持の証となる。
愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心である。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
(世界全域の高等教育の未来にとって重要なこの時期、意見を結集して日本の大学の未来に反映させようとすることは、健全な態度と私には思われます。)
It seems to me that mobilizing opinion to reflect on the future of universities in Japan, at a point in history that is important for the future of higher education everywhere, is a healthy reaction.
勧告(1997年11月11日にユネスコ総会で採択された「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」)は、「アカウンタビィリィティ」の対象として、幅広い項目をあげている。「学問の自由と基本的人権の擁護」「教育職員の教育・研究活動の倫理コードの作成」「経済的、社会的、文化的、政治的権利の実現の援助。知識、科学、技術が、それらの権利を侵害したり、学問的倫理、人権、平和に反する目的で使用されることを防ぐ努力」「高等教育機関の使命を果たすのに必要な施設・設備」等の項目を見れば、これが、対国家(財政当局)や企業等の資金提供者に顔を向けた、投資効果の実績報告のような類のものではないことは明らかである。「アカウンタビィリィティ」とは、国家から相対的に独立した大学が、自らの見識に基づき、社会全体に対して、大学の社会的使命をいかに果たし得ているかを説明するものとみなされているといえる。また、施設・設備などの項目は、「高等教育機関の使命を果たす」上で不十分であるならば、政府に対してその充実を求める根拠ともなりうるものである。わが国ではほとんど公開されていない「大学会計の公開」の項目が入っていることも注目される。広く情報が公開される中で、大学のあるべき姿が社会的に議論されるべきであると考えられているのである。大学審議会の答申は、「社会に対するアカウンタビィリィティ」という論理で、「大学の自治」に制約を加え、日本の大学を財界の望む方向に組み替えようとしているだけに、「大学の自治」に根ざした、「国民全体に対して直接に責任を負」う「アカウンタビィリィティ」のあり方を目指すべきであるという方向性を強く打ち出すことが今求められているように思う。
「これまでの議論で、再三再四確認されているのが、これから行おうとする大学評価は、資金配分のためではなく、あくまでわが国の大学における教育研究の質の向上を目的とするものであること、評価は、大学審議会の答申にも述べられているごとく、大学人の参加を得た、いわゆる同僚評価(peer review)とすること、また、評価員(reviewer)など評価事業の関係者の選出は民主的に行うこと、などである。」
国立大学の独立行政法人化について考えてみます。学問の自由や学問の自治を崩壊させかねない政策なのに、大学からも、学生からも、一般の国民からも、さしたる反対の声があがっていません。このような状況になったのは、長年、インテリの自己満足としての学問しかやってこなかった大学、とくに、書物など文字を媒体にした教育ばかりを行ってきた人文社会系分野の学者に責任があると、わたしは考えています。
「最後に、日本の高等教育を発展させるため、私の希望を申し上げておきます。教官1人あたり積算校費は、これまで一講座につき非実験系で200万円、実験系で800万円となっていましたが、2000年度から一律200万円になります。しかし、ほぼ今までと同じ額のものが各大学に配分されます。その配分は各大学で決めることになります。したがって、実験系で800万円でやっていた講座は、予算が足りなくなるので、各大学で学長が教育研究費予算を実情に合わせて配分しなければならなくなりました。そこで、教員1人あたり積算校費の最低限の金額(アカデミック・ミニマム)を増やして安定させることを、私は訴えたいのです。文科系の非実験講座でもコンピューターのメンテナンス費や通信費が研究の足かせになっています。すべてを一律800万円にすることが理想的だと思いますが、ともあれ、最低額を引き上げるべきです。」
ところが、いま進められようとしている「独立行政法人化」は、行財政改革 の一環として効率化、人員や予算の削減を主目的に提起されたものであり、大 学における教育・研究上の要請を基礎にしたものではない。主務省の監督権限 が実質的に強まり、官僚的統制の強化を招き、予算と定員のみが削減されると いう事態につながる危険性はきわめて大きい。「国家百年の計」である大事の 策定が、十分な検討の努力なしに推進され、国立大学の「独立行政法人化」が 実施されるとすれば、それはきわめて遺憾なことといわねばなるまい。 われわれは、I-3.で、大学が担うべき三つの課題(人びとの広汎な高等教育 への要求に応え、人材の養成と、学術的知見の創造的役割をになう)について のべた。このような課題を遂行する大学にあって、憲法とそれを具体化する法 律によって認められた自由と自治が制限されたり弱められることは、設置形態 の如何を問わずあってはならないことである。大学における研究・教育の自由 と管理運営上の自治の権利は十全に保障されなければならない。また、目標・ 計画とその評価は、定量的な「効率」だけを基準にするのではなく、文化国家 の理念をふまえて、教育・研究の活性化・向上・発展の見地からおこなわれる ことが必要である。 こうした条件が満たされないままに、「独立行政法人化」が一方的に進めら れ、大学という長い伝統と独自性をもつ組織に対して、制約・規制が先行する ことになれば、日本の大学は国際的にも立ち遅れ、将来に重大な禍根を残すこ とになることを重ねて強調しておきたい。
(抜粋)
「さらにつけ加えなければならないことは、学生の教育は言うまでもなく生涯学習という名の地域教育においてもまた、その教育の質と水準を左右するのは当の教育に携わる教員の、そして教育の場としての大学の研究の質と水準そのものに他ならないということである。言わずもがなのことではあるが、研究よりも教育をという発想それ自体が教育の質を破壊していくのだ。独法化によって、あるいは地方移管という事態によって、地方国立大学が研究機関よりも地域の教育サービスセンターへとシフトしていくことで、その地域的知的公共性へのかけ声とは裏腹に地域の知的な活動力を弱体化させ、上述した地方国立大学に絡み付く価値意識の不毛性(それは中央大手の大学の価値意識の不毛性の裏返しでもある)を地域社会全体の脆弱化へと拡散させてしまいかねない。独法化反対の主張の多くは学問の自由や大学の自治を守れと言う。教員のみならず多くの事務職員や現業部門の職員の職場を守れとも言う。確かにそれらは守るべきものではあり、当面の態度の取り方としては対症療法的な守りにも意義を見出しうるが、より根底的に問われるべきは守るべきものではなく、現状をどう変革していくかである。大学人としての自己吟味を潜り抜けつつこの腹立たしい現実に対してどのように切り結ぶべきか、あるいは、分離と統合のベクトルが交錯する現代社会の趨向の中で、一地域が一地方に閉ざされるのではなく、社会的にも文化的にも多様な空間と価値とに開かれる地域性をどのようにして創出できるか――そのような「研究と教育の相補性・相乗性」を強化する方途を早急に提示することが求められるように思われる。」
科学技術の基盤においてアメリカの大学は圧倒的に強い。自然科学系ノーベル賞の50%以上がアメリカの大学から出ている。これは、大学がどういう形で研究をサポートしているかに密接にかかわってくる。その大きな特徴は、教授−助教授−助手というヒエラルキーがないことである。
クリントン米大統領とブレアー英首相による、ヒトゲノム解析の結果の公共性を主張した、共同コミュニケ(2000.3.15)を取り上げて、新博士・新修士に次のように呼びかけている。
日本の大学は、少なくとも今日まで、公共的な知識を広く分配す る機能が期待されており、授業も研究指導も、原則としてそうした倫理のもと に行われてきました。その倫理が、いまや揺らぎ始めようとしているのです。 大学における知識の分配機能はどうやら二分されることになり、公共の知識と して広く解放すべきものと、特定の個人なりグループなりに属するので公共化 しえないものとの厳しい識別が、大学自身によって行われねばならなくなるは ずなのです。また、研究者個人にも、そうした姿勢が求められることになるで しょう。その結果、大学はある意味で閉ざされることにもなるのです。そうし た厳しい現実を見据えることなく、ひたすら産学の連携の必要性ばかりをいい つのることは、その後に待ち受けているはずの大きな問題に目をつぶることに もなりかねません。クリントン大統領とブレア首相のコミュニケは、そのこと を予告しているはずなのです。誤解のないようにいいそえておきますが、わたくしは、産学共同に反対だと主 張しているのではありません。大学から産業界への技術移転は、さらに効果的 になされねばならないとさえ思っております。今後の産学連携の推進には、 同時に、それを規制する枠組みの構築がぜひとも必要とされているはずであり、 それなくしては、その健全な発展はありえないといいたいのです。こうし た問題に対して、あなたがたは、いったいどのような態度をとられるのでしょ うか。それは、すでに冒頭で述べたように、あなたがたの論文の主題がどんな ものであれ、研究者をめざす以上、それぞれの専攻領域で、いずれ遭遇するこ とになるはずの苛酷な問題だからなのです。また、21世紀の大学は、広く公 共化されうる知識と、公共化されることのない知識との関係を厳密に見極める ための、新たな枠組みとそれにふさわしい倫理を必要としているからでもある のです。そして、それを確立する作業に、あなたがた自身も積極的に加担して いただきたいと思います。