目次| I.独法化問題 (【I-1】 【I-2】) II.大学の現状について( 【II-1】 【II-2】 【II-3】) III.北大の諸問題について( 【III-1】 【III-2】 【III-3】 【III-4】 【III-5】 【III-6】【IV】全学への訴え
I. 国立大学の独立行政法人化について
【I-1】 国立大学の独立行政法人化問題は、国立大学の将来を規定する極めて重要な問題です。 本来、設置形態のあり方は大学が自ら考えて自ら追究していくべきと思われますが、現在の状況は必ずしもそのようになっていないようです。この点に関して、どのようにお考えでしょうか。
阿部 和厚 教授
井上 芳郎 教授
太田原高昭 教授
小野江和則 教授
富田 房男 教授
中村 睦男 教授
福迫 尚一郎 教授
藤田 正一 教授
前出 吉光 教授
国立大学の独立行政法人化は、政府の行政的、財政的理由を前提に、国家公務員数の削減など、大学本来の存在目的とはおよそかけ離れたところから構想され、しかも大学の設置形態とは全く相いれない構想そのままの独立行政法人通則法のもとに現実に移されようとしたことに驚かされます。そして日本の100年の計をたてるとき、大学の役割の本質を根本におくことなしに、日本の大学全体を、文部大臣を長とする企業のごとくとらえたことは遺憾です。幸いなことに、これらの構想に全国の大学がこぞって反対し、国立大学協会、文部省などが問題の本質を的確にとらえ、大学の言い分を入れていく方向で調整法、特例法などに関わる内容が検討されています。この中で、北大の「独立行政法人化に関する検討ワーキンググループ」による検討と働きかけは全国的に高く評価されていることを知っています。大学は自ら考え、設置形態を考えていかなければならないことは当然です。北大の英知、全国の大学の英知を結集して対応していかねばなりません。困難な選択がせまられるはずです。各大学は、学問の自由、大学の自治を明確に踏まえてそれぞれの大学の役割をしっかり認識して、社会的に責任のある行動をとる必要があると考えます。

◇国立大学は歴史的に国家発展のための官からの要請による人材の育成がまず一義にあり、第二次大戦前は旧帝国大学を設立し、必要に応じて学部を増設し、戦後は、さらに加えて旧制高校や専門学校を統合して新制大学を設立して、人材を養成してきました。

◇一方では、大学の設置者が大学設立の理念を元に企画し、それに賛同する教育研究に強い関心を抱くヒトが参画して、理念の実現、学問の自主・独立を確保する努力の中で成立してきた歴史の古い私立大学があります。

◇法人化問題で、国立大学側から国立大学が今まで果たしてきた役割と存在の重要性が主張されています。国立大学の教職員の努力により、結果的には学問・文化の発展、人材の養成に寄与してきたことは確かです。しかし、これは私立大学でも同じで、国立大学だけ特有のものではありません。

◇ただ、国の発展のための人材養成のためと言う国の事業ということで、国立大学においては低額な授業料であるが故に、優秀な学生を集めてることが出来ました。また、このことによって、自分の研究に没頭できる環境を維持し、経常的に校費が配当され研究のレベルを維持することが出来、その結果、独自性の極めて高い業績をあげてきた数多くの教官がいたことは確かです。

◇また、国は教官の行う教育研究の自主独立という仕組みを少なくとも戦後は、法律によって身分を守り、保証してきたと思います。しかし、これが逆に、教官が何も工夫しない教育をしても、啓発的な研究をしなくても、入学者の資質に依存したある一定水準の卒業生を出していたことも事実と思います。

◇このように大学構成員の質が多様であるなかで、総合大学としての教育・研究についての理念があるのか(単に学問の自主独立といっただけでなく)、教官集団が過去の良くも悪くも積み重ねてきた実績を厳しく評価しない状況では構成員に利する設置の仕組みに流れるのではないか、自ら痛みの伴う改善策に取り組めるのか、などを考えますと、大学人自らが今までの国立大学を新しい設置形態に変更することが可能であるか否か、現時点では疑問に感じるところがあります。

◇大学における教育・研究の自由・自主・独立の原則は、現在では社会的通念として確かなものになっています。教育研究の面で我が国で主導的な役割を果たしている私立総合大学においても、教職員の教育研究における自主・独立が損なわれたという話は余り聞きません。

◇法人化問題で主張されている、教官の教育研究の自主・独立を第一義とする設置体制も重要ですが、北海道大学の教育の理念を確立して、その理念の成就のために自ら一人ずつ大学人としてどのような教育・研究を展開して行くか、を主張し、実践し、公に評価を受けていく姿勢こそが新しい国立大学の形態を生み出すもとになると思います。

独立行政法人問題は、もともと公務員の総数削減の手段として考えられたもので、当初は誰も国立大学が対象になるとは考えていなかったが、その後霞ヶ関の横並び体質の下で、大学も対象にせざるをえなかったものと聞いております。したがって大学にとっては迷惑な話であり、本来は相手にする必要はないことと考えています。

国立大学の存在意義が、高等教育についての機会均等を保証するところにあると思いますので、法人化ということはそもそもなじまないと考えますが、その点では私たちがこれまでの授業料の際限のない値上げを事実上認めてきたことが、外堀を埋められる結果を招いたという反省もあります。

そもそもこの話が、本来大学の有るべき姿に基づき、純粋に大学の発展を目的としたものではなかったこと、省庁再編と平行して進められている、行政のスリム化のため考えだされた、独立行政法人といった、大学の存在形態とは相容れない素材を持ち込まざるを得なかったことに対して残念に思います。

この問題を大学自身が考えることは当然ですが、現在国大協、文部省がそれぞれ検討していることに対して、不信感はもっておりません。先ほど述べたように、我々が残念に思っていることは、当然これらの検討に生かされるものと考えているからです。

具体のたたき台が提示される段階までは、注意深く見守るというスタンスです。その後このたたき台に対して、我々の態度を 明らかにすることは、大学人として当然の責務と思います。

 国立大学協会及び文部省(現、文部科学省)で検討が行われていることは、学内にも公表されている通りです。かなりの頻度で行われ、しかも、大学人で構成されている国立大学協会の会合(国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議)が、常に先行していることは評価できると思っております。また、一方、非公式な会合を含め、大学内外の様々のレベルで議論されていることは、この問題の重要性を広く一般国民にも理解してもらう意味で、かなりの成果が上がっていると思っています。しかしながら、国の政策に関与する方々の取り組みは、これらに応えるには、今一つ足りないように思います。  国立大学は、これまで文部行政の附属機関と位置づけられ、大学総体として国の学術・科学・高等教育全般について論議する場が極めて狭いのが実情でした。そのため国立大学の設置形態を左右する独立行政法人問題も、行政と議会において基本的な方向づけがなされる結果となっております。現在、国立大学協会と「調査検討会議」において「調整法(又は特例法)」に関する検討がなされており、学問の自由と大学の自治を尊重したよりよい法律を作るため、本学として、その場に積極的に参画し続ける必要があります。また、議会と行政に対しても、「国立大学の教育研究の特性」を尊重するよう、あらゆる機会を通じて、本学の意見を反映させたいと考えております。 ご指摘のように,また,良く言われますように,確かに独立行政法人化は重要な問題であると思います.しかし,独立行政法人化そのものが大学の将来を規定するとか,大学の存続の危機であるかのような問題の扱い方は,事の本質から目がそらされてしまうように思いますので注意が必要です.

独立行政法人化が,「いつ,どこから,なぜ」わき上がったかを,ただ社会の外部要因としてのみとらえて,あたかも自分たちの城を守るかのような主張に終始しては,社会からの納得を得るのは難しいと思います.

もし最終的に,社会の要求として独立行政法人化が避けて通れないのであれば,その中で大学として何をしなければならないのかを,自分たちの足下から見直すべきであると考えます.

大学の設置形態とは,大学の存在意義と価値を社会に認知してもらい,まず,自分たちのなすべき事と責任をはっきりと示した上で,外部に対して主張するべきことではないでしょうか.

大学の社会的役割・責任に2つの側面があるとおもいます。大学は、(1)教育研究の場であると同時に、(2)国との関係に於いては、専門的立場から、自由に政策や国の進む方向について吟味し、批判し、先見性を持って提言することができる組織体であることが健全な民主主義社会の構築と運営には必要です。大学がこれらの役割を十分に発揮できるためには、「学問の自由」が保証されなければならないし、また、大学が、国権に左右されないだけの独立性(「学の独立」)を保つ必要があります。

大学の社会的役割を理想に近いかたちで発揮できる設置形態はどのような設置形態なのであろうか。国の政策執行を効率的に行うための独立行政法人がその形態であることはあり得ない。なぜなら、この形態では、後で述べるような理由で、「学問の自由」が保証されないばかりか、大学の国権からの独立性など望むべくもないからです。

大学の設置形態のあり方は、大学が社会に果たす役割を十分考慮した上で、大学人が市民有識者の意見を聴きつつ検討して決定するべきものでしょう。「大学自ら」と言うと、大学の構成員である教員、職員、学生と考えてよろしいでしょうか。大学の社会的役割を考慮すると、「あり方」の検討には、これら構成員に加え、市民の参加が必要であると考えます。意見を伺った上で、最終決定は、その組織を主体的に運営する大学自らが決定すべきでしょう。

大学人が自らの手で大学を改革する勇気を持たなかったためです。