目次| I.独法化問題 (【I-1】 【I-2】) II.大学の現状について( 【II-1】 【II-2】 【II-3】) III.北大の諸問題について( 【III-1】 【III-2】 【III-3】 【III-4】 【III-5】 【III-6】【IV】全学への訴え
■II. 大学の現状について
【II-1】 現在、日本の大学が直面している問題の核心はどこにあると思われますか?
阿部 和厚 教授
井上 芳郎 教授
太田原高昭 教授
小野江和則 教授
富田 房男 教授
中村 睦男 教授
福迫 尚一郎 教授
藤田 正一 教授
前出 吉光 教授

社会構造の異なる欧米の例をそのまま輸入はできませんが、日本の大学では時代の 変化に対応した大学改革の動きは立ち後れていると思います。北大が日本の一地方の 大学ではなく、いまや世界の一大学としての役割を果たしていくことが必要です。マー チン・トローの予測のように、教育面からみると世界の大学はエリート教育か ら、マス教育、ユニバーサル教育へと変化し、エリートの感覚では、教育も破綻をき たし、結局は大学が破綻をするということになるでしょう。研究でも同様です。学問 の根本である個の創造性を重視すると同時に、大学がシステムとして生産的であるこ とも求められていると思います。

日本の大学改革では国際競争力ということが強調されています。しかし、国際競争 が世界的であることではないと考えています。大学改革では、この点だけが強調され すぎています。国際性には、日本にとって日本らしいこと、日本人らしいこと、北大 にとって北大らしいこと、そして人が人らしいこと、これなしに世界に伍しての発言 力は弱いと思います。技術の面、経済競争の原理のみではなく、文化、人間性を踏ま えることこそ重要と考えるからです。また、日本の大学改革は、いつも官制色が強い ことも問題と思います。内発的に時代を先取りした動きができないものかといつも思っ ています。

◇初等・中等教育と高等教育の連携が巧くいっていないことが問題点である。私は昭 和34年に大学に入学したが、我々の年代の受けた教育の意識で現在の大学教育を行 うことも問題を大きくしている。

◇初等・中等教育に対する我々の関心の低さ(文部省の施策に振り回されている)が 大学教育に重大な影響を与えつつある。

◇教育予算の低さ。

◇少子時代になれば国立大学といえども、教育面においては規模の縮小、学生獲得競 争に巻き込まれるであろう。国立大学が全てミニ東大を目指すことに意味があるのか。 国立大学間の競争より国立大学の個性化、種別化、協同化が必要であろう(云うに易 し、行うに難しであるが)。

 直面している問題はたくさんありますが、核心はやはり独立行政法人問題にあると 考えます。 これまでの大学のあり方にも大きな責任がありますが、社会が大学の重要性に対して 充分認識していないことが挙げられます。大学とは、真理を探究することにより国の 文化を醸成し、科学する喜びと人材を社会に還元する役割を担っていると考えており ます。このことが理解されていないことは、独立行政法人の問題について、一部のマ スコミが取り上げているものの、一般国民からの反響が殆ど皆無であることでも分か ります。我が国の科学・文化の担い手の主力たる大学のあり方によっては、21世紀 の日本が国際的に尊敬される国になりえないことを社会が充分認識するよう努力する ことが、大学人にとって重要と思われます。

また、我が国の高等教育・研究に対する投資額は、他の先進諸国と比べてかなり下 回っていることは、多くの識者が指摘しているところです。このことは、日本政府が 高等教育・研究の重要性を軽んじていたことの反映と思われます。幸い、この点は是 正される方向で世の中が動いているようです。

 北大のみならず、そもそも日本の大学には、3つ重大な問題を抱えていると認識し ています。

(1) 大学独自の個性を強調することがあまりなく、社会における大学の位置づけへの 努力が不足しています。
(2) 国際性が乏しい。良い研究を生み出すためにもグローバリゼーションは、不可欠 な要素です。
(3) 運営体制はヨーロッパ型ともいうべきで、行政部の力が非常に弱いので、大学内 外からの要請に対する対応が十分で来ていない。

現在は、歴史的社会変化の時代です。それに対応した改革が不十分であることでしょ う。

 教育に関しては、一方では、中等教育レベルでの学力低下と学生の多様化が生じ、 他方では、専門職業人の養成を求める社会的要請との間で、大学教育が取り組むべき 課題が多面化し、カリキュラム等の体系的再編成が必要になっております。また。研 究に関しては、一方では、科学技術の進展と国際競争の激化により、多くの先端分野 で、専門分野を再編し、新たな基軸を打ち出すことが求められています。同時に、長 年にわたって培った、大学でなければなし得ない多様な基礎的研究を継承発展させる ことが不可欠です。そして、両者の方向の間には強い緊張が生じており、それらを調 和ある形で発展させる課題に直面しております。 現在の日本は,政治・教育・自由などのどれもが自分たちの血と汗で勝ち取っ たものではないと言えるのではないでしょうか.大学もしかりであります. 問題の核心は,これまで,大学の必要性や存在意義・存在価値などを,公に議論せず に来たことだと思います.大学とは,世の中が多少変化しても変わらずに存在するべ きものなのか,それとも,社会の多少の変化に追従してその存在価値が変わってしま うようなものなのか.

大学も現実としては社会の機構の一部であります.もし大学の構成員が,構成員にし かわからない言葉で,その存続を,声高にさけんでいるとすれば,社会がその必要性 を認めなければ存続はゆるされないでしょう. 逆に,大学そのもの(本質)に,不変の価値観を,社会が認知していれば,現在の問 題の捉え方も変わっているだろうと思います.


・少ない予算
・不十分な人員配置、特に教育研究支援に必要な人員の不足
・不十分な設備

簡単に言えば、国が余りにも大学を粗末にしてきたことのつけが回ってきたと言うこ とであろう。これを大学側の問題とするのは、責任転嫁である。大学の側も余りの困 窮に、自分の大学・学部への利益誘導のみを考え、権力あるものや文部省を刺激しな いよう、発言を調節し、おどおどしながら御機嫌を伺う。こんな情けない大学の姿は 見たくない。

大学側の問題としては、
・一部教員の教育意欲・研究意欲の欠如、大学の使命の認識の欠如
・一部学生の学習意欲の欠如
・教養部廃止、教育の効率化に伴う全人教育の縮小
・大学の自治や学問の自由の侵害に対する無策・無防備

日本の大学からノーベル賞級の優れた研究が出にくい要因の一つに、若い研究者の発 想が十分研究に生かされない構造があると思われる。若手の研究者が独立した研究者 として研究室を持つことができる体制にするには、十分な予算措置と同時に、研究支 援の為の人員、即ち、テクニシャン、ガラス器具洗浄員、実験動物飼育管理者等の充 実と、各研究者とペアを組んで研究を推進できるポストドクを大量に増員する必要が ある。現状では研究の実動部隊が学部生あるいは大学院生であるが、トレーニングの 身である彼等の研究よりは、技術、知識において圧倒的に優位なポストドクを主体と した研究体制を組むべきであるとおもいます。
・大学の自治や学問の自由の侵害に対する無策・無防備について

あらためて言わせて頂きます。大学における真の自主性、自立性は、大学における 「学問の自由」の保証と、「大学の自治」の確保、そして、政治、宗教など様々な権 力からの「学の独立」の保証なしには成立しません。これらの概念は、西洋における 大学と権力との関係の長い歴史の中から生まれてきました。「地球は動く」と言った ガリレオを弾劾した宗教裁判に代表されるように、権力によって、自由な発想での研 究が阻止されたり、大学の研究を通して知り得た知識や情報が、権力によってねじ曲 げられたり、事実の公表や、教育としてのその伝達を妨げられたりしてきた苦い経験 から生まれてきた概念です。我が国の大学の歴史においても、明治初年はじめて西欧 式の大学が設立された時期に「学問の自由」「学の独立」の概念も紹介されましたが、 時の政権には受け入れられず、戦前、戦中を通して「学問の自由」に対する弾圧があっ たことは歴史的事実です。

このような歴史の反省から、憲法23条には「学問の自由」が、また、教育基本法1 0条第1項には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責 任を負つて行われるべきものである。」という「学の独立」の精神が明記されていま す。「学の独立」は、「学問の自由」を可能にするための理念です。大学における研 究によって知り得た事実や情報を公開し、教育によって伝達することの権利と義務は、 国民に対する責任において行われるべきものであって、いかなる権力も、何人もこれ を支配し、これに干渉するようなことがあってはなりません。

私達は「学問の自由」の侵害が疑われた時、被害者としてこれを弾劾するのではなく、 大学人としての我々の使命としてこれを弾劾し、「学問の自由」を守って行かなけれ ばならない。「学問の自由」は私達だけのものではなく、国民全体の財産なのです。

〔I-1〕に同じですが、特に国立大学においては「大学の自治=学部の自治」 が、大学人の個人的利益を守る便利な隠れミノとなり、大学が果たすべき社会的責任 を大学人自らが軽視してきたこと、その結果、国立大学に対する社会の失望を招いた ことにあります。(独法化反対の声が国民から一向に出てこない事実を私どもは重く 受け止めるべき)
目次| I.独法化問題 (【I-1】 【I-2】) II.大学の現状について( 【II-1】 【II-2】 【II-3】) III.北大の諸問題について( 【III-1】 【III-2】 【III-3】 【III-4】 【III-5】 【III-6】【IV】全学への訴え
■II. 大学の現状について 【II-2】 市場原理・競争と効率化の導入、大学評価・学位授与機構による評価をど うお考えですか。これらは大学の活性化に有効だと考えられますか。
阿部 和厚 教授
井上 芳郎 教授
太田原高昭 教授
小野江和則 教授
富田 房男 教授
中村 睦男 教授
福迫 尚一郎 教授
藤田 正一 教授
前出 吉光 教授
いまや、大学の社会的責任、資源投入、いわば大学に対する期待に応えることの責任 を強く認識しなければならない時代に入ったと受け止めています。大学のあらゆる活 動に説明責任も求められています。評価はいまや必須の要素であり、大学の活性化に 有効と考えます。私の経験を述べますと、平成4年に点検評価委員会に入って、1) 評価には具体的目標が表現され、評価基準が明確であること、2)教育に関して教育 業績の評価、3)その基準に合意をもつための研修が必要であると感じました。それ なりの戦略的努力をしてきて、研修(FD)が実現したのは、平成10年で6年かか り、教育業績評価(教育業績の開示)は、平成12年で8年かかっています。 これらは、もっと早い対応が求められるとしても、研究となるともっと長いスタンス が必要になるものも多いとみなされます国立大学にも、私立大学にあるように市場原 理・競争と効率化ということは否応なしに入ってくると予想されますが、国家の計を 担うという視点なしの競争の場に国立大学を置くことは、日本の将来を危うくすると みなします。

◇市場原理・競争と効率化が馴染む分野と馴染まない分野があることをはっきりする ことが重要です。何を対象にして市場原理・競争を行うのかが明確でないまま議論さ れているような気がします。

◇特殊な、基礎的な分野の教育研究を、市場原理から排除することは出来ません。し かし、大学で研究する以上、その研究に基づいた教育は必ず学生に還元しなければな りません。特殊な分野に傑出した研究成果をあげた教官中にも、学生の教育に対する 視点、時には一般教養教育の分野における「専門家による非専門教育」の視点が希薄 であった人がいたことが、昨今の国立大学批判(象牙の塔のような用語がまかり通る) を招く1つの要素を作ったと思います。

◇大学評価・学位授与機構による評価は、その結果を容認するしないは別にしても、 我々の教育研究生活を別な角度から見て貰うことは重要と考えます。もし、その時、 自分の気がつかないところを指摘されれば活性化に有用となります。

◇また、良い研究、良い学生教育を行っている大学には国立公立私立を問わず重点的 に資金が投入される仕組みが重要でしょう。

市場原理・競争と効率化の大学への導入ということが具体的にどういう状態を指すの か、定型化されたイメージはまだないと思います。もしそれがサッチャー首相のもと でイギリスの大学に導入されたようなものを指すのなら、留学した私の教え子の経験 からみても、およそ活性化とはほど遠いものになるでしょう。

私は農業経済学で協同組合を専攻しておりますので、もともと市場原理に基づく競 争というものをあまり信用しておらず、「競争から共生へ」というのが21世紀のト レンドであると考えています。大学もこの方向で努力することが活性化への道ではな いでしょうか。

大学評価機構の発足は、これまでのような中途半端な外部評価をやらされている立 場からは一歩前進であると思っています。しかしそれが「公正な評価」につながるか どうかは、やはり大学人の監視と、「内部評価」の力量にかかってくると思います。

市場原理を強制的に大学に持ち込むことには反対です。効率化を文化に求めること自 体ナンセンスだと考えるからです。ただし、大学の扱う科学・文化の中には、このよ うな市場原理に適応できる分野もあります。このような分野では大学人の自発的な意 志によって、大いに取り組むべきことと考えます。大学の中に競争的原理が全く無い こと自体は異常なことと思います。しかし、あくまでも公正な評価があって、教育・ 研究の発展が促される訳であって、現在の大学評価・学位授与機構がその任にふさわ しいかは、現時点では分かりません。このような評価組織が充分機能するためには、 多様な専門知識と多くの経験が必要なことを知っているからです。少なくとも米国で 行われている、同様のシステムを我が国にそのままあてはめることについては、私は 疑問を持っています。  科学研究費など既に競争原理を取り込んだ制度が動いています。しかしながら、大 学には競争原理になじまないものが数多く存在します。大学として、市場や競争とは 無関係に備えておかなければならい研究や機構が存在しているのです。これらは、市 場原理の考え方とは無関係に備えるものでしょう。文学部や理学部のない大学を、私 は、ユニバーシティーとは、呼びません。

評価は、社会に対する透明性や説明責任(アカウンタビリティー)を果たすために 役に立つ一つの指標とならなければならない。また、これを利用して企画・立案の根 拠の一つとして大学の運営に促進的に利用できる可能性もあります。が、一方、評価 を予算配分などに利用される恐れも存在するので、その運用については、今年から始 まる試行を慎重且つ注意深く見守り、検討を加える必要があります。

 国民の税金を使用する以上、国立大学は、第三者機関による評価を受ける必要があ ります。ただし、大学の主たる活動である学術研究および高等教育に対する評価は、 専攻分野の研究教育者による相互評価(ピア・レビュー)に基づかなければなりませ ん。そして、この相互評価を適正に行うために、私たち大学人は、評価能力を高める よう努める必要があります。したがって、大学評価・学位授与機構による評価はこの ようなものでなければならないと考えます。また、大学における行政運営に関しては、 国民の税金を無駄な区使用するため、適切な機関の評価を受けるべきと考えます。 それが良い意味で大学を活性化するのであれば,競争や評価もある程度は必 要でしょう.
一方,競争や評価に目を奪われて,本来の目的や我々の役割というものを見失ってし まいがちになることも危惧されます.

大学の評価なども,いろいろなものを数字やグラフで示されても,世の中の人々がそ れを見て本当に信じて納得してくれるでしょうか?

市場原理・競争、効率化:

大学の教育研究には市場原理・競争にはそぐわない学問がある。というより、大学に おける学問研究は、市場原理・競争によって支配されてしまってはいけない。市場原 理は「今と近未来」の価値観で取捨選択をしてしまう。メンデルのエンドウ豆の研究 が、最新の医療や医薬開発に結びつこうなどと当時の誰が想像しただろうか。有珠山 の噴火がなければ、北大の火山研究だって市場原理を生き延びれたかどうか分からな い。大学が文化創造の場であるとするなら、市場原理の導入は大学を大学ではなくし てしまう。

 損得勘定でものを考え、儲かることが良いことである。物質的豊かさの追求が善で ある。特許の出願率が、外国にくらべ少ないのが問題である等と言う価値観が大学の 教育研究にまで及んでしまうことを恐れる。大学における研究の応用の結果、人類が 物質的にも精神的にも豊かになることをさまたげようと言うのではないが、大学の教 育研究が儲けることを第一義にするようなことがあってはならない。市場原理とそれ に基づく競争には大学における研究で知りえた事実の独占が伴う。人類の福祉の為に、 新しい発見に情熱を燃やし、競争をするのは健全であるが、大学の使命を認識した上 での競争であるべきである。

衣食足りた上での適度な競争は研究意欲の増進を生む。飢えた馬の鼻面にニンジンを ぶら下げて馬を走らせるような競争は進むべき道を失ってしまうばかりか、馬を潰し てしまう。
グローバルな視点での学問的競争心は研究者にとって健全であるが、ローカルな、ち まちました場所で、ちまちました予算の奪い合いの競争はしたくないものです。

大学評価・学位授与機構による評価:

 大学の評価が即、予算措置に結びつくと言う、独立行政法人通則法のもとでの評価 であるならば、評価法によっては、学問の自由を束縛しかねない危険性を持っている。 予算をつけないことによって、その研究の可能性を潰してしまう。まさに、100年以 上前、明治の人が帝国議会発足を目前にして、議会による大学予算決定に、このよう なことがあってはならないと、大学の独立の必要性を指摘したポイントそのものです。

大学評価・学位授与機構の評価委員に100年の未来を見越す能力があるとは思えない。 研究内容にも立ち入ったピアレビュー形式で行われる可能性が高いが、将来有用な研 究を潰してしまう危険性もある。

大学評価・学位授与機構が真に第三者機関であるならば、大学の評価と同時に、文部 行政の点検評価を行うべきです。独立行政法人化されたなら、文部科学省の中期目標 の指示が適切であったか、予算措置が適切であったか。中期目標の指示が適切でなかっ た故に大学が良い結果を出せず、悪い評価となってしまうことだってあり得ます。中 期目標の指示の責任は重いといえます。計画がうまく実行されなかったと言う評価か ら予算の削減があるのであれば、不適切な目標を指示した主務大臣にも責任をとって もらわなければならない。不適切な目標設定から、評価が悪く、予算が削減され、職 員の首を切らなければならないことになるのであれば、主務大臣も首をかけて目標の 指示をしてほしいものです。

遅まきながら、「大学(人)もまた一般社会の一員であること」を、社会が 大学に要求しはじめたということです。第三者の評価を恐れていては、大学の活性化 などあり得ません。
目次| I.独法化問題 (【I-1】 【I-2】) II.大学の現状について( 【II-1】 【II-2】 【II-3】) III.北大の諸問題について( 【III-1】 【III-2】 【III-3】 【III-4】 【III-5】 【III-6】【IV】全学への訴え
■II. 大学の現状について
【II-3】 大学のあるべき未来像を語って下さい。
阿部 和厚 教授
井上 芳郎 教授
太田原高昭 教授
小野江和則 教授
富田 房男 教授
中村 睦男 教授
福迫 尚一郎 教授
藤田 正一 教授
前出 吉光 教授
大学の個性化は時代の要請と考えます。大学間の競争ということは、個性化の競争と 考えます。情報社会において、しかも人員を整理していこうというこの時代には、同 じような国立大学はいらないことになりかねません。これからの大学は、個性、特徴 を明確にして、互いに連携、協調して総体として機能していく国家的体制が必要かと 考えます。しかし、これも国家的、政府による統制は問題です。各大学は自らの発想 で個性化をはかるとともに、相互協力を大学が主体となって進めていくべきでしょう。 日本のあちこちに、個性の異なる大学があり、そこで力を発揮していくことが共存に むすびつくと考えます。大学内で学部を越え、研究科をこえた協調がすすむとともに、 大学間で同様の協調がすすむこと、これにより日本全体から見ると、効率的、効果的 研究、教育が進行すればと思います。ドイツの大学システムに似ることになります。 ◇教官が蓄積している研究から得た成果を基に、学生を全人的に教育して、安定した 社会を作れる人材を育成出来るシステムを持つ高等教育機関。

◇自己中心的な考えの少ない、お互いに痛みがわかる、そして研究教育能力の高い大 学人の集団としての高等教育機関。

 難しい質問ですが、近未来で言いますと、企業の開発力は「効率化」の下で低下に 向かい、国公立試験研究機関は独立行政法人化で5年先の結果が見える課題にしか取 り組めなくなると言われています。大学における研究活動への期待は強まらざるを得 ません。

少子化の影響が心配されていますが、生活を守る国民の運動と連携して進学率を向 上させる展望を持たなければなりません。その時、大学進学を心から薦めることの出 来る教育力を私たちが持つことが出来るかどうかが問われるでしょう。

国立、私立をはじめ、大学にも多様なカテゴリーがあります。これを市場原理型の 競争にさらせば結果は見えています。多様な大学が「共生」していくためには、国大 協の掲げる「自主・自律」(大学の自治と学問の自由)、「財政確立」(先進国並の 研究投資)がそのための条件となります。

何れにせよ、国民との連携という視点を持てるかどうかが、共生の道を歩むか、際 限のない競争に自らを追い込むかの分かれ道になるでしょう。

科学・文化は人類のかけがえのない財産であり、この財産を維持し、発展させる使命 を持った大学で働けることに誇りを持っています。しかし、これまでの大学人はとも すれば独りよがりな面があり、そのため一般社会と遊離した側面は、否定できません。 過度に社会に媚びる必要はありませんが、大学で得られる新しい知識等の喜びを広く 共有できる体制を創ることが重要ではないかと考ております。  大学の果たすべき役割の第一は、教育です。即ち「知」の伝承、「知」の育成、 「知」の創造にあります。第二に、大学院重点化大学では、教育とほぼ同じ比重で研 究(「知」の創造)が重要です。大学は、わが国の知的活動の基本的な組織であり、 知的社会システムのセーフィティネットでもあるわけです。従って、文部省の附属機 関としての現状では、歴史的転換期の今日では、その特性を十全に発揮するには困難が あります。国立大学が、教育産業としては成り立ちにくい分野を、国益にかなうよう に分担し、国費で維持・発展させなければならないのです。このようなことを行うた めには、大学人が中枢となる大学(文化学術)評議会(仮称)などの常設の高等教育 と予算権をもつ)を作り、わが国の高等教育・学術の基本を各界の代表者も交えて論じ、総理大臣補佐官級の専任者を置いて、最高度の文教政策の 策定から学術全体構成などを迅速且つ透明性をもって行う必要があると考えています。  教育に関しても、研究に関しても時代や社会の要請を受けて、目的が多面化してく る事態に柔軟に対応しうる創造的な知の拠点であるとともに、総合的な判断のできる 人材の養成をなしうる大学像を想定しております。そのためにも大学という場でのみ 展開できる基礎的な学術研究を維持発展させていかなければなりません。このような 教育研究の目的を達成するためには、大学の全構成員の総意をくみ上げることのでき る、機能的でかつ透明な管理運営体制を築いて行かなければなりません。 私は,大学の形態や外観がどのように変わっても,文化と文明の拠り所であ ることがその根幹にあると考えております.未来においても,人が人として生きて行 くための文化と文明を守り,常に最新のことの発信地であるとともに,最も古いもの も守って変わらない,そんな大学であって欲しいと思います.  アメリカの州立大学と州との関係のように、国は金は出すが、使途についての口出 しはせず、大学の良識に任せる。大学の良心と、使命感と、先見性を持って、必要と あらば、大学は国の政策を痛烈に批判する自由度を持つ。それに対する国の報復はな い。(出来ない)。むしろ、国は大学のこのような機能を健全な民主主義社会の構築 の為に必要不可欠と理解している。
学問の自由は保証され、大学は経営面、教育面、管理運営面など、全てにおける自治 権を持つ。

 学部教育は未来戦略案を一歩進め、学部縦割りと学年制を廃止し、完全単位制とす る。入学には学部区分がなく全員北大に入学する。これにより、学生は大学に入って から自分の進むべき道を見極めることができる。また、総合大学のメリットを引き出 すことができる。学生は、自分の主専攻を自分で選び、主専攻の必修科目単位に加え、 選択必修科目、選択科目の組み合わせで必要単位数を取得して、学士(主専攻名)を 取得できる。従って、学生は各個人がオーバーラップするが、それぞれ異なるカリキュ ラムを持つことになる。主専攻は中途で変更が可能とする。8年間を上限として、卒 業単位数を完取した年次に卒業可能とする。(計算上は、最短2.5年程度で卒業可 能なはずだが、ゆとりを持ったカリキュラム作成を指導する)。副専攻も学生が自主 的に自由に選択できる。専攻名は必ずしも既存の学部名とはしない。たとえば、生物 学専攻、西洋文学専攻、美術専攻、音楽専攻、医学進学課程専攻、建築学専攻など。 ただし、学部教育は、あくまで専門教育を受ける以前の準備教育と捕らえ、幅広い教 養教育を施し、学生の視野を広げ、我が国の歴史文化に加え、異文化の理解と寛容、 専門分野の基礎等を学ぶ。全学の教官が全学教育に取り組む。

 大学院は学士の資格を取得したものを選抜の上、受け入れる。大学院は教官の本籍 がある教育研究組織とする。研究の実動部隊はポストドクである。研究科間の壁をは ずし、同系の学問分野が連係できるネットワーク型研究機構を構築する。医・歯・獣・ 法学部は学士取得後に進学する職業大学院大学校とする。また、これらは通常の大学 院をも併設する。
大学院講議は専門の教官が自分の専門分野を講議するリレー方式の講議を複数科目用 意し、最新の情報を教授する充実した講議とする。

芸術学研究科を北大に新設し、大学に文化の香りの風を吹き込む。

社会から信頼され、社会をリードする存在となること。