木村:ところで最近,国立大学の特別法人化の動きがあります。競争原理が持ち込まれ,採算のとれない大学がつぶれたり,不採算部門が廃止されたりという懸念があります。この点についてはいかがでしょうか。宇沢:あのようなひどい制度が現実のものになりつつあるのは恐ろしいですね。世界にもこんな例はありません。社会的共通資本としての大学,病院は,そこで働いている人の職業的な判断に基づいているわけで,その結果として利益が上がらないところは公的に社会が負担するという形にしないといけなません。浪費そのものは問題ですけれども,大学や病院では浪費は必要で,一種のゆとりと考えるべきです。
...独立行政法人化では自由裁量の余地はますます狭くなるのである。これまで国立大学が様々な制約を持たされてきたのは、国立大学という制度上の問題よりも、予算の削減を含む文部省の様々な行政的な規制であって、やめようと思えばいつでもやめられる規制である。こうした公立・私立大学への直接の影響もさることながら、より重大なことは、国立大学の独立行政法人化は国公私立を含む大学についての考え方の大きな転換であることである。それは、大学は当面の経済や国策に奉仕すればいいという考えへの転換を意味する。これでは、「学術の中心」(学校教育法第52条)という大学の役割は果たせない。
国立大学を独立行政法人化することは、長期的に見れば国立大学の基礎体力を確実に消耗させることになり、経済界にとっても決して得策とはいえないであろう。まして、日本の社会全体にとって見れば、国立大学がますます国民から遠ざかり、一部のために奉仕する存在となっていくことである。
5 これまで、日本の大学は、国公立・私立を問わず、貧困な施設と予算の制約に もかかわらず、日本及び世界の学術研究の機関として重要な役割を果たし、平和と国 民の福利の向上に貢献する多くの優秀な人材を育成し、国民全体そして将来の世代の 教育を受ける権利やより優れた文化を享受する権利を保障・実現する「国民の共有財 産」となってきた。このような大学の公共性を維持し発展させることができたのは、国立大学の場合、国 の施設として不十分とはいえ一定の財政保障を得て、時々の政府、個々の企業等の目 先の政策や要求から一定の距離をおき、研究者の良心に基づき自主的に長期的な視点 から国民全体のための研究および教育を行うことを基本とすることができたからにほ かならない。
今回の独立行政法人通則法に基づく国立大学の独立行政法人化は、総じて大学の公共 性、すなわち国による財政保障に支えられた教育研究の自主性を大きく傷つけて学 問・研究の発展に歪みをもたらし、かつ国民の教育・文化に対する権利を直接・間接 に後退させるものといわざるをえない。そしてこのことは公立大学・私立大学も含め た日本の大学政策の拠って立つ基礎を掘り崩すことにもつながるのである。
通則法の適用を阻止する歴史的使命
通則法の立法趣旨と大学の理念が根本的に矛盾しているので、 特例措置でこれを解消できない。 通則法は国家統制の悪法であり、これを大学に適用すると、それは歴史的な悪法となる。これは、単に国立大学だけの問題ではない。 市場原理により採算のとれない基礎科学や地方大学は衰退し、長期的に見て歪な社会を招来する。もとより、大学は時の政権に奉仕するものではなく、より普遍的な立場から未来の歴史に責任をもたなければならない。 今、必要とされていることは、国公私立が担う高等教育に国が他の国並みの財政措置をすることであり、大学が自主・自立ができる 真の法人格をもつことである。 そして、大学人が本来の仕事である教育・研究に専念できるようにしたい。 そのために、通則法の適用を阻止する歴史的使命が我々にあり、また国大協はその本領が試される、最初で最後の時である。この責務の遂行こそ、大学人の最後の矜持の証となる。
愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心である。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
国立大の独法化は、実はまるで根拠のない「国家公務員25%削減」の閣議決定を前提とした数あわせの道具であることがみえみえである。よりうがった見方をすれば、中央省庁改革が結局は「大山鳴動してネズミ一匹」状態に陥った現実を前に、行革シンボルとして郵政・大学・研究所・病院などがスケープゴートとして使い回されている、と言えなくもない。ところがなお大学内部には、根拠薄弱な「幻想」(結局大きな変化はないのではないか、研究教育条件が良くなるのではないか?)や「敗北主義」(もはや反対しても無駄だろう、自業自得なので仕方がない?)が蔓延しているように見える。この間の国立大独法化への対抗運動が生み出してきた知見・経験が、いまだ学外ばかりか学内ですら十分に共有されていない状況は一刻も早く克服されねばならない(「独立行政法人通則法」を大学に適用することの具体的な問題点や危険性については、すでに多くの分析と批判がなされている。その詳細は「次号につづく」) 。
...悠長な話で恐縮だが、私は定員削減の数あわせから出発した議論をいったんキャンセルして、言葉の真の意味での大学改革のために、高等教育という国民の財産を守り育てていくために、また本当に働きがいのある民主的な職場づくりのために、もう少し時間をかけて開かれた議論をすべき問題だと考えている。その際に新自由主義的改革の是非を巡って学外の市民と交流・連携することが必要だ。この期に及んで原則論を説いて何になるという批判に対しては、どんな苦境に立っても原則論を忘れないことこそ大学の矜持ではないのかと答えたい。
...さらに付け加えれば、寄付や産学連携等による自主財源確保が困難な学問領域や地域においては、これまでにも存在したさまざまな格差(たとえば、そもそも収益性を見込めない研究領域、都市圏に出なくても居住地域で高等教育を受けるチャンスの格差)がますます拡大するだろう。大学の個性化の名の下に「研究大学」「高度職業人養成大学」「教養教育大学」などの大学の種別化が進行すれば、専門知識と幅広い教養を同時に修得する機会を保障することも、過度の受験競争を是正することも困難になるだろう。
大学に実利主義や短期的な業績競争が過度に浸透すれば、長期的・基礎的・独創的研究が成り立たなくなり、学術文化を次世代に向けて継承・発展させるという大学本来の責任を果たせなくなるのは火を見るよりも明らかだ。あるいは「経営努力」の名の下に「規制緩和」を大いに活用して、安上がり・効率的・利益の上がる教育・研究を求める傾向に拍車がかかることも予想される。場合によっては、企業と組んで利益の上がる・特許のとれる研究が推進され、そうでない研究は冷遇されるか、潰されるかすることも大いに考えられるわけである。これらが国立大の独立行政法人化から論理必然的に導かれる帰結であるなどと言うつもりはない。しかしこの間の情勢や政治動向を眺めると、いったん独法化が始動すれば、そうした危険な方向に転落してゆく可能性の方がはるかに高そうだ、という程度の予測は成り立つように思う。ここはいったん立ち止まって、もう一度じっくり考えなおしてみるべきときである。学術文化はひとたび潰れると、復興するのに莫大な時間とコストがかかることに思いをいたすべきである。将来に禍根を残さない選択がなされるよう、読者の皆さんも共にお考えいただければ幸いである。
今後直面する財政危機の構図は、従来の節約を主体とした歳出削減で克服できる課題ではなく、一般会計、特別会計そして財政投融資を含めた財政制度全体の再設計が求められる課題となる。そうした財政システムの再設計において、国立大学の財政を長期的な観点から如何に位置づけるかの議論を行うべきである。
東京大学の入学式が十二日午前、東京都千代田区の日本武道館で行われた。蓮実重彦学長は式辞で「独立行政法人通則法によって国立大学の設置形態を変えようとする『大学改革』を含めて、より大きな文脈を無視した安易な二者択一によって進展している」と、政府による一連の大学改革をあらためて批判。新入生に「理由もなく決定的だと確信することは、思考の柔軟性を奪う。それは若さの放棄につながりかねない」と、意識して柔軟な知性を保つように求めた。 国立大学の独法化などの「改革」については「知性に背を向けたまま事態が推移している日本の現状を深く憂慮せずにいられない」と批判。「大学に備わっている知性だけが、そうした状況を批判することができる」と、大学人の果たす役割を強調した。
大学はかならず国立でなければならないということはありません。国立であろうと公立、私立であろうと、あるいは法人であろうと、設置形態のいかんを問わず、大学は大学として備えるべき3つの要件を備えていればよいと、私は考えています。その3つの要件というのは、第1に大学の自治、つまり、大学のことは大学で決めるということ、第2は教育と研究の自由、第3は教育研究の安定した人的物的基盤の維持ということです。
...先にのべたように、学長をはじめ教員の人事が文部省の意向に左右されるようになると、大学のなかから活気が失われ、停滞した空気が生まれていきます。教育と研究にとって何よりも必要なものは自由な雰囲気であり、そのなかから生まれる活発で独創的なとりくみの姿勢です。現在でもすでにそういう雰囲気がくずれてきている大学が増えてきているようで、私はこれでは日本の学問や技術の将来はあぶないと、ひそかに憂えているのですが、もし通則法の枠内で国立大学の独立行政法人化がすすめられるならば、日本の将来はますます暗いものになると思われ、憂慮に耐えません。
...国立大学の法人化はいま突如としてだされてきたものでなく、さかのぼれば1971年の中教審答申にはじまるものです。しかしそれが今回、急に現実化してきた背景に、行政改革のための国家公務員削減があることは周知のとおりです。国立大学の一部には「法人化すれば定員削減をまぬかれる」という声があるようですが、この見通しはきわめて甘いといわざるをえません。一言でいえば法人化は国立大学の大リストラなのです。しかし、いま日本の企業がリストラをやりすぎて製品の質が落ちているといわれるように、国立大学のリストラは日本の学問と技術と、大学卒業生の質を落とすことになるでしょう。「国立大学を法人化して、これからの日本の経済は大丈夫なのか」という危惧の声が財界のなかにさえあるそうです。
今回のような大掛かりな独立行政法人化はわが国の教育界にとってはじめて体験することであり、それに伴う困難な場面に直面することも十分想定されます。しかし、その時には恐れず、勇気と自信を持って事態に対処していくべきあり、前向きで柔軟な姿勢をとることにより、必ずや問題を克服できることでしょう。何も実施前から悲観論に立つ必要はありません。そもそも昔から独立した法人が設置する私立大学などでも、教育・研究の成果を十分に挙げ、発展していることを忘れてはなりません。逆に国立大学が独立行政法人になることによって、国の組織の一部であるための様々な規制・抑制から開放され、国立大学自身にとってむしろ未来へ向けた変革のために与えられた絶好の機会であるとして捉えるべきではないでしょうか。かつて電電公社や国鉄が民営化される際に、公益性が損なわれるのではないかと様々な悲観論が飛び交いましたが、逆に両社は経営の自由度を活かして活発なサービス展開を行ない、ユーザー、株主、従業員に大きなメリットをもたらしました。
(adminの補足:独立行政法人は廃止・民営化・第三セクター化のための過渡的形態として設計されたものだから「大半の国大が将来、地方移管・第三セクター化・民営化・廃止されることが我が国の高等教育改革の起爆財となる」という主張である。中央省庁が不要になるところまで地方分権化が完全に行われた場合には地方移管は自明な正論となる。)
「...現在は、SNPsを効率よく解析するための技術を使っで新会社を設立する予定。これに対して大学は、認めるのみならず、推奨している。これは、国立大学ではなく私立大学であるからこそ可能となっている。
これから日本が大学を改革しようとするとき、それができるようにしなければならない。これは、産学連携の強力な方策の一つであるといえる。聞くところによると、国立大学教官の大半は、現在進められようとしている改革において、公務員型を希望しているという。
一方で、日本にいる私の知り合いの教授達は「自分は国家公務員である必要はない。むしろアメリカのように自由にハイテク産業を作ったり、コンサルタントになったりできればいい」といっている。
国家公務員型の独立行政法人化した場合、こういったことをやるのは憲法達反になると聞く。こういう部分を解決していくことが産学共同の強力な推進方策になるだろう。」「日本のように選挙で学長を決めていては、個人の能力や見識が発揮できない。誤解を恐れずに言えば、学問というのは民主主義ではできないというのが私の考え。能力に応じて、できるか、できないかが決まるもの。五百人の先生方がいて、みんなが同じ能力を持つ者ではないのにもかかわらず一人一票でものを決めていくのは、悪しき民主主義である。会社の社長は社員が投票して決めるわけではない。大学もそういうかたちで移行していくべきである。そうすることによって、それぞれの大学の個性が出てくる。」
「グラントに申請された研究計画書の中に、ノーベル賞を獲得した研究内容が記載されていることはほとんどない。ノーベル賞につながるような非常に独創的な研究は、研究を進めていく過程でのアクシデントで生まれることが多い。研究計画書通りに研究が進んだとしたら、たいした発見ではない。」
20世紀の一番最後の年に大学に入学した諸君に、ひとまず、おめでとうといいましょう。 ...「独立行政法人化」の問題は、国立大学が古いままの国立大学でいることを許さないでしょう。...日本の大学の存在形態を変えようとしている人たちの目指しているものは、イメージとしてはアメリカの大学ということになるでしょう。...アメリカ的な自由競争は、少数者の自由(経済的成功)と圧倒的多数の不自由をもたらします。社会のあらゆる側面で、競争がいけないわけではない。しかし、教育機関が体現すべき価値は、精神的なもの、あるいは文化的なものです。教育機関の存立の根元に自由競争を持ち込もうとするものは、私には、人間文化への悪意ある敵対者であるように思われます。
...もうそろそろ日本は、父親的存在であったアメリカから精神的に自立してよいのではないでしょうか?自立するために必要なこと、それは、一方では我々が生きてきた社会と歴史の批判的検証作業、もう一方ではそうした知的な営みに裏付けられた我々の意思の形成です。アメリカとは何か、日本とは何か、これを探る知性は大学のなかで鍛えることができます。ありがたいことに、大学はこの機能を十分に果たすことが出来ますし、諸君の年齢はその種の知性(判断力)を鍛えるのにふさわしい時期でもあります。
少し積極的に動いてみましょう。応えるものは(半ば隠れた形かもしれませんが)大学の中にも外にも必ずあります。授業だって、教室という檻ではなく、知的な出会いの場となることもできるのです。
(世界全域の高等教育の未来にとって重要なこの時期、意見を結集して日本の大学の未来に反映させようとすることは、健全な態度と私には思われます。)
It seems to me that mobilizing opinion to reflect on the future of universities in Japan, at a point in history that is important for the future of higher education everywhere, is a healthy reaction.
勧告(1997年11月11日にユネスコ総会で採択された「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」)は、「アカウンタビィリィティ」の対象として、幅広い項目をあげている。「学問の自由と基本的人権の擁護」「教育職員の教育・研究活動の倫理コードの作成」「経済的、社会的、文化的、政治的権利の実現の援助。知識、科学、技術が、それらの権利を侵害したり、学問的倫理、人権、平和に反する目的で使用されることを防ぐ努力」「高等教育機関の使命を果たすのに必要な施設・設備」等の項目を見れば、これが、対国家(財政当局)や企業等の資金提供者に顔を向けた、投資効果の実績報告のような類のものではないことは明らかである。「アカウンタビィリィティ」とは、国家から相対的に独立した大学が、自らの見識に基づき、社会全体に対して、大学の社会的使命をいかに果たし得ているかを説明するものとみなされているといえる。また、施設・設備などの項目は、「高等教育機関の使命を果たす」上で不十分であるならば、政府に対してその充実を求める根拠ともなりうるものである。わが国ではほとんど公開されていない「大学会計の公開」の項目が入っていることも注目される。広く情報が公開される中で、大学のあるべき姿が社会的に議論されるべきであると考えられているのである。大学審議会の答申は、「社会に対するアカウンタビィリィティ」という論理で、「大学の自治」に制約を加え、日本の大学を財界の望む方向に組み替えようとしているだけに、「大学の自治」に根ざした、「国民全体に対して直接に責任を負」う「アカウンタビィリィティ」のあり方を目指すべきであるという方向性を強く打ち出すことが今求められているように思う。
「情報公開法の対象から特殊法人が除外されたのと同様に、独立行政法人も除外されることになった」
「このように、大学における教育研究の創造的展開のためには『通則法』、従ってまたそれを基本設計とする限り、独立行政法人制度は、大学に適用してはならない。大学へのその安易な適用は、わが国の学術研究と高等教育の取り返しのつかない衰退をもたらすであろう。」
「これまでの議論で、再三再四確認されているのが、これから行おうとする大学評価は、資金配分のためではなく、あくまでわが国の大学における教育研究の質の向上を目的とするものであること、評価は、大学審議会の答申にも述べられているごとく、大学人の参加を得た、いわゆる同僚評価(peer review)とすること、また、評価員(reviewer)など評価事業の関係者の選出は民主的に行うこと、などである。」
国立大学の独立行政法人化について考えてみます。学問の自由や学問の自治を崩壊させかねない政策なのに、大学からも、学生からも、一般の国民からも、さしたる反対の声があがっていません。このような状況になったのは、長年、インテリの自己満足としての学問しかやってこなかった大学、とくに、書物など文字を媒体にした教育ばかりを行ってきた人文社会系分野の学者に責任があると、わたしは考えています。
「最後に、日本の高等教育を発展させるため、私の希望を申し上げておきます。教官1人あたり積算校費は、これまで一講座につき非実験系で200万円、実験系で800万円となっていましたが、2000年度から一律200万円になります。しかし、ほぼ今までと同じ額のものが各大学に配分されます。その配分は各大学で決めることになります。したがって、実験系で800万円でやっていた講座は、予算が足りなくなるので、各大学で学長が教育研究費予算を実情に合わせて配分しなければならなくなりました。そこで、教員1人あたり積算校費の最低限の金額(アカデミック・ミニマム)を増やして安定させることを、私は訴えたいのです。文科系の非実験講座でもコンピューターのメンテナンス費や通信費が研究の足かせになっています。すべてを一律800万円にすることが理想的だと思いますが、ともあれ、最低額を引き上げるべきです。」
ところが、いま進められようとしている「独立行政法人化」は、行財政改革 の一環として効率化、人員や予算の削減を主目的に提起されたものであり、大 学における教育・研究上の要請を基礎にしたものではない。主務省の監督権限 が実質的に強まり、官僚的統制の強化を招き、予算と定員のみが削減されると いう事態につながる危険性はきわめて大きい。「国家百年の計」である大事の 策定が、十分な検討の努力なしに推進され、国立大学の「独立行政法人化」が 実施されるとすれば、それはきわめて遺憾なことといわねばなるまい。 われわれは、I-3.で、大学が担うべき三つの課題(人びとの広汎な高等教育 への要求に応え、人材の養成と、学術的知見の創造的役割をになう)について のべた。このような課題を遂行する大学にあって、憲法とそれを具体化する法 律によって認められた自由と自治が制限されたり弱められることは、設置形態 の如何を問わずあってはならないことである。大学における研究・教育の自由 と管理運営上の自治の権利は十全に保障されなければならない。また、目標・ 計画とその評価は、定量的な「効率」だけを基準にするのではなく、文化国家 の理念をふまえて、教育・研究の活性化・向上・発展の見地からおこなわれる ことが必要である。 こうした条件が満たされないままに、「独立行政法人化」が一方的に進めら れ、大学という長い伝統と独自性をもつ組織に対して、制約・規制が先行する ことになれば、日本の大学は国際的にも立ち遅れ、将来に重大な禍根を残すこ とになることを重ねて強調しておきたい。
茨城大学は「地域に根ざす国立大学」として、地域の課題に応える様々な研究を重 ね、また茨城県を中心に学生に大学教育を広く提供し、地域に多くの人材を送り出し てきました。また聴講生制度や公開講座などを通じて県民の学術・文化の二一ズに応 え、さらに行政や市民運動に対してはシンク・タンクの役割も担ってきました。 独立行政法人化は、足腰の弱い地方国立大学には不利に働きます。私たちは、茨城 大学が独立行政法人化することで、これまで行なってきた地方国立大学としての役割 を果たすことが困難になることを強く危惧するものです。独立行政法人化反対を広く 県民の皆さんに訴えます。
8 地方における国立大学の社会貢献の重視 さらに,国立大学の役割の重要なものに知の社会貢献がある。新制大学創立以来50年間にわ たり,地方における国立大学が,質の高い教育・研究,地域貢献の面で果たした役割を再評価す べきである。しかるに,国立大学の独立行政法人化は,効率性という競争原理を導入させること になり,大都市にある大学はいざ知らず,地方にある大学は,授業料収入や規模の大きくない地 元企業との産学連携といっても限界があり,従来維持してきた質の高い教育・研究の保障に危惧 の念を抱かざるを得ない。このことは,教育・研究・文化の面で地方の後退を招きかねず,地方 の国立大学の社会的責任を負い得なくするおそれがあると思料するものである。これは,21世 紀の日本社会が地方分権化社会を迎えるべきであるとする国家政策とは矛盾せざるを得ないもの と考える。 9 更なる検討 国立大学の設置形態は,大学での教育と研究の在り方を左右する根本的問題であり,仮に,そ の変更を行うのであれば国立大学がこれまで果たしてきた成果と改善すべき問題点や独立行政法 人化の長所と短所等について十分時間をかけて検討し国民の理解を求めていくべき問題といえる。 しかるに,このための時間が非常に短期間であり,そのうえ,「国立大学の独立行政法人化の検 討の方向」においては「検討する」とされている部分が多く,議論が不十分なまま推移している と考える。文部省には,制度設計者として,十分な討論のための時間と,特例措置基準の明確化 を求めるものである。
(抜粋)
「さらにつけ加えなければならないことは、学生の教育は言うまでもなく生涯学習という名の地域教育においてもまた、その教育の質と水準を左右するのは当の教育に携わる教員の、そして教育の場としての大学の研究の質と水準そのものに他ならないということである。言わずもがなのことではあるが、研究よりも教育をという発想それ自体が教育の質を破壊していくのだ。独法化によって、あるいは地方移管という事態によって、地方国立大学が研究機関よりも地域の教育サービスセンターへとシフトしていくことで、その地域的知的公共性へのかけ声とは裏腹に地域の知的な活動力を弱体化させ、上述した地方国立大学に絡み付く価値意識の不毛性(それは中央大手の大学の価値意識の不毛性の裏返しでもある)を地域社会全体の脆弱化へと拡散させてしまいかねない。独法化反対の主張の多くは学問の自由や大学の自治を守れと言う。教員のみならず多くの事務職員や現業部門の職員の職場を守れとも言う。確かにそれらは守るべきものではあり、当面の態度の取り方としては対症療法的な守りにも意義を見出しうるが、より根底的に問われるべきは守るべきものではなく、現状をどう変革していくかである。大学人としての自己吟味を潜り抜けつつこの腹立たしい現実に対してどのように切り結ぶべきか、あるいは、分離と統合のベクトルが交錯する現代社会の趨向の中で、一地域が一地方に閉ざされるのではなく、社会的にも文化的にも多様な空間と価値とに開かれる地域性をどのようにして創出できるか――そのような「研究と教育の相補性・相乗性」を強化する方途を早急に提示することが求められるように思われる。」
科学技術の基盤においてアメリカの大学は圧倒的に強い。自然科学系ノーベル賞の50%以上がアメリカの大学から出ている。これは、大学がどういう形で研究をサポートしているかに密接にかかわってくる。その大きな特徴は、教授−助教授−助手というヒエラルキーがないことである。
NEDOでは、平成11年度第2次補正予算事業「タンパク質機能解析」に関する公募を開始し、2月4日をもって公募を締め切りました。公募にたいして、14件の提案が寄せられ、NEDO内に設置した技術評価委員会により、厳正な評価・審査を経て、委託先を決定しました。委託先は約20社の製薬会社を中心とする大企業の集まりである財団法人バイオインダストリー協会となっている。他の13件の応募名は掲載されていない。大学関係は応募がなかったのだろうか。科学技術基盤整備計画の14兆円の一部だろうか。
クリントン米大統領とブレアー英首相による、ヒトゲノム解析の結果の公共性を主張した、共同コミュニケ(2000.3.15)を取り上げて、新博士・新修士に次のように呼びかけている。
日本の大学は、少なくとも今日まで、公共的な知識を広く分配す る機能が期待されており、授業も研究指導も、原則としてそうした倫理のもと に行われてきました。その倫理が、いまや揺らぎ始めようとしているのです。 大学における知識の分配機能はどうやら二分されることになり、公共の知識と して広く解放すべきものと、特定の個人なりグループなりに属するので公共化 しえないものとの厳しい識別が、大学自身によって行われねばならなくなるは ずなのです。また、研究者個人にも、そうした姿勢が求められることになるで しょう。その結果、大学はある意味で閉ざされることにもなるのです。そうし た厳しい現実を見据えることなく、ひたすら産学の連携の必要性ばかりをいい つのることは、その後に待ち受けているはずの大きな問題に目をつぶることに もなりかねません。クリントン大統領とブレア首相のコミュニケは、そのこと を予告しているはずなのです。誤解のないようにいいそえておきますが、わたくしは、産学共同に反対だと主 張しているのではありません。大学から産業界への技術移転は、さらに効果的 になされねばならないとさえ思っております。今後の産学連携の推進には、 同時に、それを規制する枠組みの構築がぜひとも必要とされているはずであり、 それなくしては、その健全な発展はありえないといいたいのです。こうし た問題に対して、あなたがたは、いったいどのような態度をとられるのでしょ うか。それは、すでに冒頭で述べたように、あなたがたの論文の主題がどんな ものであれ、研究者をめざす以上、それぞれの専攻領域で、いずれ遭遇するこ とになるはずの苛酷な問題だからなのです。また、21世紀の大学は、広く公 共化されうる知識と、公共化されることのない知識との関係を厳密に見極める ための、新たな枠組みとそれにふさわしい倫理を必要としているからでもある のです。そして、それを確立する作業に、あなたがた自身も積極的に加担して いただきたいと思います。
成長神話の終焉、終身雇用・年功序列制の崩壊、さらには情報通信革命、物流革命・・・。これは、単なる不況や技術革新による変化ではありません。経済と情報のグローバル化が、全地球規模のメガコンペティション時代の扉を開いたのです。いま、日本は幕末、終戦にも匹敵する大きな変化の渦中にあります。これまで築き上げてきた日本型システムの成功にこだわるあまり、自ら変革することに逡巡が見られます。 お仕着せのグローバルスタンダードにひたすら適応するだけではなく、いまこそ果敢に新しい制度を構築しなくてよいのでしょうか。社会基盤研究所は、維新への道を開いた坂本龍馬と海援隊のように、「ニッポンを今一度せんたく」すべく、「第三の開国」を目指して立ち上がりました。」人材派遣会社パソナ グループが(リストの最初に書いてあるので)筆頭株主らしい。最近は東京ビジネスサービス株式会社研究者派遣の広告が(日本学術振興会)『学術月報』2月号(通巻663号)に乗ったことが記憶に新しい。