| マスコミ | 個人・団体 | 発行者 | 文部省関係 | 大学関係 | 政権関係 |
| 2000.12.31 | 独立行政法人化問題週報Weekly Reports No 34 (2000.12.31号) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2000.12.30 | 第7回 設置形態検討特別委員会2000.11.30(議事の概要)より
「概ね以上のような意見交換があった後,委員長より,次のように述べられ,委員会はこれを了承した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2000.12.29 | [he-forum 1543]大崎仁氏「国立大学法人化への国際的視点」 (学士会報2001-I No.830 p.38-51,2000.7.21 午餐会講演要旨)
2000.12.29
| 栃内新氏の「きょうのつぶやき」(2000.12.19)より | 「このままでは日本人の99%は幸せになれない 日本人はアメリカにだまされている Stop following America」の紹介 2000.12.27
| [he-forum 1538] 東京大学新聞12/12 |
2000.12.26
| 豊島耕一氏「中教審答申と「国民会議」報告,語句の使用頻度」
| 2000.12.26
| ケリー・ネルソン氏のページ | What Hath English Wrought: The Corporate University's Fast Food Discipline by Cary Nelson
The Corporate University's Principles of Governance:
1) The student consumer is always right.
「学問・研究,そして真の教育が,自由の中から生まれ,育つこともまた真理である。その砦が,大学であることを再認識する必要性が,大学改革が叫ばれている今日だからこそ,重要な課題になっているといえよう。
田村氏の大学教育問題ページ
...
[33-0](発行者)審議会化が進行する調査検討会議
平成12年12月20日 佐賀市議会
内閣総理大臣
この定員外職員問題ページは、当面の緊急課題である雇用確保に関する情報・資料を提供するとともに定員外職員問題全体に関わる情報・資料等も提供し、抜本的な解決策と運動についても研究していきたいと考えます。掲示板を設置し、読者からの情報・見解・経験等の投稿を掲示します。 なお、このページの中で定員外職員というのは、日々雇用職員と時間雇用職員のことです。それ以外の委任経理金等で採用されている職員については、「委任経理金等採用職員ページ」で取り扱うことにしました。
管理者の感想:「市場原理パッシング」など起きているのだろうか。次期科学技術基本計画は市場原理一色で塗りつぶされているではないか。著者の政治的意図は不明だが、情報操作が目論まれている疑いがないわけではない。しかし、哲学的議論の訓練を受けた者による市場原理論であるため、市場原理推進と言われている諸政策の批判を深める契機となる文書かもしれない。なお、著者の立場からすれば当然であるが第7章3節で行われている独立行政法人化の是非を巡る議論では取り上げる反対意見が矮小化されており「大学民営化反対論者は、なんだかんだ理屈をこねて自分たちの既得権益を守ろうとしていて、ひどいのになると、『大学構内は、市民が散歩する憩いの場で、民営化すると部外者の立ち入りが禁止されてしまう』などと言って民営化反対を主張する大学人もいる。こう言う大学人は、大学が公園としてしか機能していないことを暗に認めているわけで、お寒い限りだ。」とまで言っている。
0 .独立行政法人化後の運営
○[1]独立行政法人化後の運営組織の基本的な考え方としては、教学と経営を一体とするかどうかという問題であり、しっかりと議論すべきである。
○[2]独立行政法人化は、国立大学の自立性、自己責任の拡大という観点から実現されるべきだが、その場合、役員組織を学長や副学長等が担うことにより、法人と大学の一体性が保たれることが是非必要である。
○[5]学問の自由は、基本的に上下の命令系統の組織では維持されない性質を持っており、したがって、学問の自由、大学の自治を考える際には、合議制という、横の関係の人間が議論し合って物事を決めていく要素が不可欠である。ただし、大学運営の全てについて合議制によって決めればよいということではなく合議制の対象を何に限定するか議論すべきである
○[7]大学の自主性・自立性を確保することも重要だが、大学の教育研究、管理運営、社会貢献など、大学運営の全てにわたって教員のみの合議制で決定していくことは、不可能である。特に、独立行政法人化後の大学運営では、従来以上に様々な問題に対応して、組織上の機能分化を明確にしていくことが必要である。
○[14]学外者の意見は、これからもますます大学運営に採り入れなければいけないが、大学の自主性・自立性の確保をまず基本として考えるべきである。
「研究における厳しい競争は、勝者と敗者の格差を大きくするとともに、予期せぬ知的情況をも生み出した.それは情報の価値が上昇したため、以前は自然に行われていた情報交換が減り、いわば知識や情報のかこい込みのような現象が起こったことである。すなわち、研究が競争的経済行為(economic enterprise)という認識が徹底してきたのである.42)そのため現在の労働党内閣は競争よりも協同を重視する研究政策に変えつつある.興味深いのは、法人化・企業化されると、研究機関問の協力関係が薄くなるなどの悪影響がオーストラリア連邦議会下院の産業・科学・資源委員会でも問題になっていることである.43〕それによれぱ悪影響とは、(1) R&Dが、長期間の利益よりも短期間の利益を目指す傾向、(2) 公共的に重要ではあるが利益のうすい型のR&Dや情報収集を軽視すること、(3) 情報の所有資格についての不明確さ、(4) 企業化あるいは民営化された研究機関間同士での、あるいはこれらの機関と外部研究機関との間での、R&Dについて協力関係が減っていること、があげられる.
行革による大学法人化について、その評価者が利を得ているか、不利益を被っているかにより賛否は分かれよう。しかし大学の大多数の研究者の志気がおちているという現象は、経年的に行われている研究者の意識調査で明らかにされたという.44),筆者らが今回訪れた大学の中では、マツセイ大学以外のオークランド太学、オタゴ大学ではすべての教授が同様の感想であった.45)」
「日経新聞殿
日本に国際競争力がないのは、高等教育政策が「有能な人材を育てる」ことにしか関心がなく「有能な市民を育てる」視点が欠けているからではないでしょうか。学生や大学院生が大学運営に参加することで、大学は活性化すると同時に、市民として自立する場を学生に提供することになります。市民として自立していない優秀な「人材」をいくら製造しても仕方ない時代に
なったのではないでしょうか。
高等教育のグローバルスタンダードであるユネスコの「21世紀の高等教育に向けての世界宣言:展望と行動 (1998) 」に政府はどうして耳を傾けないのでしょうか。高等教育の使命と機能の中の「第1条 教育・訓練・研究遂行の使命」だけを推進し「第2条 倫理的役割、自律性、責任、および先見的機能」を抑圧するいびつな高等教育政策で、どうやって日本は国際的に太刀打ちできるというのでしょうか。」
「日本の大学自治は「学問の自由」を守る歴史でもあった。だがそれは、教官たちに無条件の特権を与えているわけではない。大学への社会的要請が変わるなか、「自治」を掲げるならば厳しい自己変革が求められる。
国立大学が法人格をもとうと、もつまいと、確保されなければならないのは学問の自
由に基づく大学の自治であり、それを保障する安定した財政基盤の確保である。文部
省が「大学の自主性・自律性」といっても、大学の自治ということをけっして口にし
ないのは、自らの大学への統制・管理の意思を捨てていないからである。 より
大学側が了承しないかぎり独立行政法人化が実現しないことは、いろいろな角度からみて明らかなことだと思います。正確にいうと、了承しない大学の独立行政法人化を現政権は断行できるかも知れませんが、そのために払う行政的コストと政権の晒されるリスクが大きすぎる、というべきかも知れません。そのために文部省は国立大学協会に協力を要請しているわけです。
現政権が最終的にしなければならないことは、国立学校設置法から99の国立大学名を削除することと、新たな(統廃合される可能性が高いのでおそらく99よりはかなり少ない数の)「・・・・大学法人法」を国会で可決することです。
独立行政法人化は行政改革の文脈で出てきた政策ですが、1999年4月27日の中央省庁等改革推進本部の方針でも「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成15年までに結論を得る。」と明言されているわけですから、独立行政法人化が大学改革に有害であると判断し国立大学に留まる決断をした大学に独立行政法人化を強制するには、政権は国民に対して、そこまでして行うほど独立行政法人化が大学にとって良いものであることを説明する義務とともに、独立行政法人化後の大学の行く末に重い責任が発生します。また、意に反して公務員の身分を変更することにつながる決定ですから、政府に対する訴訟問題が発生する可能性も少なくありません。
そういった面倒を避けるため何とかして大学が自主的に独立行政法人化を選ぶように強烈な行政指導が行われつつあるわけです。その効果というべきでしょうが、大学院重点化の時と同じように全国で画一的な大学改革が、大学自身の判断の形をとって進行しており、独立行政法人化も大学自身の責任で選択する方向に追いやられつつあるわけです。このままですと、独立行政法人化の全責任は大学自身にしかないことになり、長期的に独立行政法人化の弊害が出ても、大学の引き返すところはなくなります。...
「国大協への署名運動」について,世話人の辻下,野田,私の3人で相談いたしま
して,さらに継続を呼びかけることにしました.第4次の集約を2001年1月末に
行いたいと思います.多くの方々のご賛同,ご協力をお願いします.
(ご注意:このメールに直接返信されますと,ネット全体に流れますので,署名は noda@math.ems.okayama-u.ac.jp にお送り下さい.)
呼びかけ人のリスト,最初の呼びかけ文,署名者のリストなど,この運動の詳細については次のサイトをご覧下さい.
(A) 継続の趣旨を述べた文,
と続きます.
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/net/nethefo978.html
「その振興」の「その」はもちろん国立大学を意味します.この場合,「国立」
大学としての振興か,それとも一般に大学としての振興か,とで意味上の重大な分
岐があります.前者であれば,国大協が国立大学を国立大学でなくすような決定や
活動に関わることはできないはずです.しかしもし後者であれば可能でしょう.ど
ちらの解釈が正しいのでしょうか.
会則が今日のような事態と「議題」とを予測していないのはたしかでしょう.ま
た国大協はそのような重大な議題を扱うにはあまりにも粗末な組織です.なぜなら,
それは単に「学長会議」にすぎず,国立大学全体の死活に関わるような案件を処理
するのに最低限必要とされるであろう「民主的な代表制」という条件を備えていな
いからです.したがってそのような目的には不適格なのです.言い換えると,第4
条の「その」の意味がどうであれ,組織の実態からしても,独立行政法人化問題に
ついて結論を出すような行為は,会の権限と能力の範囲を超えている,すなわち規
約4条にもとる行為であると見なされるのではないでしょうか.
規約の第5条を見てもこのことは明らかでしょう.
国大協がこれまで独立行政法人化反対を表明してきたのが4条に適合するのは自
明です.しかし「自己否定」はふつう,まず自らの組織を解散するのが先決です.
このような目的外の決定がある組織に許されるとしても,それは,代わるべき決定
方法をとることができない緊急にしてやむを得ない場合に限られるでしょう.
ここまで読まれて,このような主張は単なる手続き上の難癖だろうと思われる人
も多いかと思います.そうではなく,私が主張したいのは,もしこのような重大な
意志決定を国立大学全体として行うのであれば,それにふさわしい手続きを取るべ
きだ,ということなのです.各大学に一票しかなく,またそれぞれの意見集約の手
続きも不明確というのでは国立大学の構成員全体の意見を正確にまとめることは出
来ません.「独立」行政法人化への賛否が大学ごとにまとまっている(または偏っ
ている)というわけでもないからです.だいいちメンバーが学長だけですからその
年齢構成は非常に偏っているはずです.委員会があるといっても,その任命権はす
べて学長にあるのです.
どうしても「独法化」の是非を国立大学として決めなければならないとすれば,
例えば,各地域ごとに各大学から数名ないし十数名を選出して「合同評議会」のよ
うなものを構成して審議し,それを全国で持ち寄る,というような本格的な意見集
約の手続きを踏むべきでしょう.つまり,賛否の意見のいわば「数え直し」をやる
べきなのです.現在の「表向き反対だが実は容認」という「投票結果」の数え直し
です.国大協がこのような手続きの媒介者になることはありうるでしょう.
念のために付け加えますが,国大協への働きかけが重要でないとか,意味がない
と言っているのではありません.その逆です.現状は不当とはいえ国大協がデファ
クトの「代表権」を握っているのは事実なのですから.そしてその働きかけの第一
項目は「越権行為をやるな」ということです.
鹿児島大学の田中弘允学長が「鹿大広報」で述べられた言葉(注)に次のようも
のがあります.
この表現になぞらえれば,次のように言うことも出来るでしょう.すなわち,「本
格的な規模での議論」が計画されないことも同様に問題で,「これらの作業を省略
して」国大協で代用しよう,というのもやはり手続き上の怠慢である.例えば上で
提案したような,もっと本格的な議論の場を設けること,このことが「密室の議論
を避けて開かれた場における決定がなされ」る条件でもある.
(注)国立大学の独立行政法人化−行革の論理の暴走−
「民主党は8日、来年夏の参院選に向けた公約の柱として、文部省(来年1月から文部科学省)を解体し、文教分野を国から地方自治体に移管することを盛り込む方針を決めた。画一的な教育から脱却して、地域の特色を生かした教育を推進するのが狙いとしている。
同党案では、自治体ごとに教育関係者や住民で構成する「教育中央委員会」(仮称)を設け、教育内容や、学校で採用する教科書、1学級あたりの生徒数などの決定権を持つようにする。同党は地方分権の推進を参院選公約に掲げる予定で、こうした流れの一環だ。」
中期計画には数値目標が数多く挙げられている。例:
東京大学は、「東京大学21世紀学術経営戦略会議(UT21会議)」を設置し、精力的な検討を開始しました。この「UT21会議」は、東大における「東京大学のあるべき姿の検討とその実現方策(実施計画)の策定」に留まらず、現在、国大協「設置形態検討特別委員会」で進められている検討項目・内容に大きな影響を与えることは必至であります。
国大協は、11月30日の「設置形態検討特別委員会」で「基本的考え方」を討議したもようで、この「基本的考え方」を来年3月までにまとめたいとしています。なぜ、3月なのか。「UT21会議」の2つの委員会も3月までに評議会上程ということで、国大協の日程と重なります。それは、蓮實東大総長(国大協会長)の任期が来年3月—東大の次期総長は12月21日に決まりますーまでだからです。さらに、国大協執行部の有力学長の何人かも3月末、4月末交代です。従って、東大も国大協も現執行部での「責任」は、果たしておきたい(次期学長、会長をしばらない)ということであろうと思われます。4月からの国大協の会長人事をどうするのかー平時だと副会長が会長代行をし、6月定例国大協総会で会長を選出するのだが・・・。7月に文部省「調査検討会議」の中間報告が予定されている中で、一番大事な時期に「会長代行」では、国大協の舵はとれないと思います。ましてや、「独法化」急先鋒の副会長が会長代行にでもなったら、それは悲惨です。4月以降の国大協会長人事は、重大な関心ごとであります。
東京大学の「UT21会議」の内容と国大協の動向から次のことが推察されます。
・「東大憲章」が全国大学の「大学憲章」作成のモデルとなると思います。現在、「名大学術憲章」(名大HP掲載)があるのみです。大学憲章は、その大学の基本理念、特質などを明確にするという点だけであれば、なんら問題ないと思います。しかし、「通則法」の枠内での「大学憲章」は、「通則法」を糊塗する役割をはたす危険性があることに留意すべきだと思います。
・「UT21会議」は、「法人化した場合の条件整備」、「国立大学法人法大綱の制定」を今年中、来年3月までとしていることに注目せざるをえません。今回の「UT21会議」の一連の文章から「独法化」という言葉が消えた印象を受けるが、東大の「国立大学制度研究会報告」は、「通則法」の枠を超えていませんので、その真意がわかりません。むしろ、東大として、「通則法の枠内でなく、東大が良いと思う法人化をめざす、それが認められないなら東大は国立のままで良い」というようなわかりやすい態度表明をしてほしいと思います。
・これまでの事例からすると、東大の「教授任期制」導入が、国大協、他大学の引き金になる可能性があることから「教授任期制導入」にも十分留意する必要があるように思います。
・文部省、国大協等において様々な形で検討されている設置形態の議論のなかで、東京大学のとるべき姿勢の選択は、今後、東京大学が総体としての力をどのように発揮できるかにかかっている。例えば、外的制御の道具として最も悪用されうる運営経費について、仮に東京大学がその総意として、「自由な発想による教育研究と如何なるものにも制約を受けない自由な発言力を保持することを重視し、現在の基盤経費(教育経費+最低必要経費(生活費))を保障するため、競争的資金等の一部をプールし基盤経費の確保に活用する」ことを合意するなら、部局の利害得失を離れた総体としての判断にたつことができ、本学の設置形態の論議に対する姿勢は、堅牢な後ろ盾を得ることになる。同時に、東京大学が一個の有機体としての力を発揮できる組織的機能を整備することは、法人化の制度設計にあたっても、きわめて強固な鉾を得ることになる。
公立小学校と中学校の国語、算数などの主要教科の授業を、通常の学級とは別に二十人程度の少人数グループで行う新制度が二〇〇一年度から導入される見通しになった。文部省が少人数授業の導入を目指して、来年度予算に要求している教職員定数の改善(増員)計画について、大蔵省が大筋で認める方針を固めたためだ。文部省は少人数授業に合わせた教員の配置を来年度からスタートし、五年後に少人数授業を全国で完全実施する考えだ。
...
また,ずっと昔に指摘しましたが,そもそも国立大学にこれを当てはめることは,
これら二つの法律で明示している目的条項に合いません.
中央省庁等改革基本法第三十六条
最近は教育行政文書では「競争的環境」という言葉が頻用されますが、日本ほど初等中等教育が「競争」一色で塗りつぶされた国は少ないのではないでしょうか。しかもその競争は「決められたルール下での管理された競争」であり、現代国際社会で最も必要な「ルールをめぐる戦い」に必要な感性を完全に押しつぶすものです。今の日本がルールを巡る国際競争で全く太刀打ちできないのは、管理された競争で、子供たちの精神的弾性を奪っているからです。
国立大学協会会報に、3月〜6月の国立大学協会で行われた種々の議論が詳しく掲載されています。6月総会議事の中の独立行政法人化に関する部分を転載します。毎日新聞の報道(200.6.24))で様子はかなりわかっていましたが、議事録を見ると、議論を尽くしてではなく、「議事運営技術」を尽くして、調査検討会議参加に議事を収束させたことがよくわかります。 [1-7] の議論のあと、調査検討会議の具体的な内容が呈示されて、議論が戦術的な話しに移ってしまいます。[19]のようなまともな意見はほとんど無視されて[20],[30]のような自己規制の意見も少なくありません。豊島さんが「謀議」と表現したのは的確な表現と感じます。 もちろん戦術を議論するのは当然のことですが、そういった議論だけで、21世紀の日本の大学を左右しかねない「調査検討会議参加合意」が決まったことは残念です。(辻下 2000.12.2)
「競争」18箇所、官庁用語(予算獲得用語)「特色ある」2箇所「高度化」9箇所。
「独立行政法人」制度を国立大学に適用することは大いに問題があるという指摘はたくさんありますが,違法とまで言いきたものはほとんど見かけません.では合法なのでしょうか.つまり合法的に選びうる政策の選択肢の範囲内のものなのでしょうか。
しかし違法と言いきっていないにせよ,「学問の自由」や「大学の自治」に言及して,これに反するものと論じているものは見られます.次のような例が挙げられます.
23条の「解釈改憲」ないし空洞化が謀議されているときに,これにはっきりと警告を出すことなしには「護憲」もあり得ません.ましてやその謀議の場である「調査検討会議」に加わるなどもってのほかです.国大協の方々,そして文部省の方々もこの事を真剣に考えていただきたい.
「特例法」や「調整法」でなんとかなる,という議論がなされるでしょうが,それで「違法性」がクリアできるというのは単なる希望的観測に過ぎません.現実に存在するのは「通則法」であり,文部省はこの法律制度のもとで検討すると明言しているのです.この「第ゼロ近似」から良くも悪くもなりうる,と考えるのが客観的な態度というもので,したがってこの前提が外されない以上,議論の標的は「通則法」以外にはあり得ません.言い換えれば,今後の検討で変化が起きるにせよ,結果の「期待値」は通則法である,との前提で議論しなければならないのです.」
国大協は、11月30日に設置形態検討特別委員会を開き「国大協の考え方」(今回の総会に提案するとも言われていた)をまとめる予定。その上で分科会の討議を1月末まで行い、おそくとも3月中には法人化に関する個別の問題についてまとめたいとしているようです。以上の情報は、世話人が全大教本部に問い合わせてお聞きした内容をまとめたものです。
「p38:「しかたがない」について
p65:社会の「政治化」について
p79:日本の経済構造の歪みについて
p96:Responsibility と accountablitiy の混同ついて
アカウンタビリティに欠けているというのは、自分たちが何をしているのか、なぜそうしているのかを、自分の所属する省庁以外の人に説明するよう求められれていないという意味だ。何が日本にとってよいことだと思うか、なぜそう思うのか。官僚はそれを説明するよう要求されていないため、自分の属する省庁の利益を超えた広い見地からものごとを考えられないのである。」
p153:日本では、官僚の権力が全く管理されていないことについて
p192:官僚には、変化への対応という低次元にしか選択肢がないため、状況に支配されざるを得ない、ということについて
日本の省庁は誤りを決して認めないことについて
p250:指導者の無能と構成員の無関心が組織の有害な惰性を引き起こすことについて
p256:国家予算を官僚がすべて決める国は日本だけ
p258:「しかたがない」という政治的言葉を辞書から追放すべきことについて
p264:日本では、制度と思想を通して組織的に偽りの情報が流されていることについて
p322:日本の市民社会は大新聞により乗っ取られていることについて
○[1-2]..独立行政法人化になれば、理論的には特別会計がなくなることになるが、もし独立行政法人化になった場合に、そのままで存続することが考えられないとすれば、それに変わるべきものを作って行かなければならない。そのあたりを専門家の立場からお教え願えればと思っている。
○[2-19]運営費交付金の説明に際し、各大学に対する算定基準に関し、地方の国立大学にとって大きな意味があるといわれたが、そのあたりをもう少し具体に説明願いたい。
○[2-20]学生数、学部数とか、単純に面積的なものといった立地に関係なく、その規模だけで測定されたとすると、おそらく地方にある大学の方が交付額が減る可能性がある。今、地方交付税で起きているように人口集積が高い方へシフトしており、それと同じように都市部から離れていることに対する立地条件というのをどのように勘案するのか、それを算定基準に入れるのか入れないのかといったことを議論しておく必要があるのではないかと思う。
○[2-23]独法化になれば、国の監査、さらに企業監査も受けることになり、非常に煩雑な状況になる。我々にとって何のメリットも無いように思うが、将来的には何らかの改善が計られる見通しがあるのかないのか。
○[2-24]会計処理面でいえば、IT化みたいなものが投資されないとすれば、かなり負担になると思う。そのあたりの環境整備がされれば自動処理で負担軽減も図られる。しかし、その整備のための経費が莫大であり、移行時に国がそれを担保するのかどうか、担保されなければ今まで通りのやり方をしなければならないことになる。しかし、監査が入るのは一期目の最後であり、その間に検討する余地はあると思う。
○[2-27]現在の大学間における予算配分の状況を分析しようとしても、その資料がない。情報公開的な意味も含めて、文部省の検討会議で資料要求をしていく必要があるのではないか。これを国立大学側から主張すれば、同会議に民間企業の方も同席されているので、理解も得やすいだろうし、これがなければ議論が進まないことにもなりかねない。
○[3-9]競争的環境ということで、多くの学長が心配されていることがある。それは評価の配分によっては、それがどのように評価されるかによって致命的なダメージを被ることもあり得るからで、一例として、地味で、応用に結び付かないというようなことで評価がないがしろにされてはいけないと思う。そうすると評価を受け易いものだけ進めていき、それによって予算がつくということになれば、非常に不健全なことになる。すなわち、予算配分と評価の関係は重要な根本問題である。
「大学評価の進め方に関する要望書の提出等について
国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議「連絡調整委員会」(第1回)(平成12年11月14日)
大学の事務組織に関する最近の提言
国立大教職員有志(代表・辻下徹北大教授)は十五日、東京都内で総会を開いた国立大学協会(国大協)に対し、国立大の独立行政法人(独法)化について話し合う文部省の調査検討会議への国大協代表の参加を撤回するよう、文書で要請した。六百八十一人が賛同、道内からも北大、北見工大など六大学の七十三人が名前を連ねている。
仙台市青葉区の東北大川内北キャンパスで21日午前、国立大の独立行政法人化に反対する一部学生がストライキに入り、机やいすでバリケードを築いて講義棟3棟を封鎖した。川内北キャンパスで午前中に予定されていた89の講義は急きょ、休講となった。
東北大学生課によると、ストには学生ら約60人が参加している。バリケード封鎖は、沖縄駐留米軍による陸上自衛隊王城寺原演習場(宮城県大和町など)での実弾砲撃訓練反対を訴えた平成9年11月以来という。
「...
この、「教育改革疲れ」は、日本の学校にも当てはまるのではないでしょう
か。「教師の専門性」が言われながらも、先生が本来の専門的仕事に打ち込め
る時間は減少し、学校における教師の時間感覚が変化してきています。先生方
が感じているのは、時間の質の劣化と摩耗感覚です。つまり、制度は新しくなっ
ても先生方は疲れを増していっているのです。
...
これからの学校に必要なのは、制度改革論だけではなく、それを支える関係
性の構築なのです。一般に教師のストレスの低い学校では、子どもの話が出る
し、教師同士の関係がその葛藤も含めよく見えるといわれます。学校やクラス
を、システムではなく「関係」として見られる同僚性(教師間の関係性)や、
親や地域との関係づくりが必要となります。大きな改革ではなく小さな出来事
を語り合う関係性づくりによって「改革疲れ」を乗り越えていく方途が、今求
められていると思われます。」
○[1-4] この懇談会は,通常の審議会とは違ったものにしたい。審議会は座長制であり,座長は取りまとめ役になってしまうが,この懇談会は,座長のパーソナリティーを出したものにしてもらいたい。座席は決められた場所に座るのではなく,自分の好きな席に座るようにしたらどうか。また,21世紀の大学を考えるにあたっては,21世紀が21世紀にふさわしくなるのはいつ頃かということをまず考え,それに対する戦略として,大学をどのような組織にしていくかということを考える必要がある。その際,もう一度考えるべき問題とそうでないものを整理し,理想像を描くにあたっては歴史的視点を加えて,いつ,現在の状況が変わるのか,何をきっかけとして変わるのか,そのとき大学をどう組織するのか,ということを年次計画で考え,設計していく必要があると思う。
●[1-5]私が考えているのは,全体論として21世紀の大学がどうあるべきかということである。現実も踏まえながら,総論として日本の大学のあるべき姿を考えるためにこの懇談会を設置した。いただいた意見はしっかりと受け止め,この会議を単なる議論の場として終わらせない決意をもっている。初等中等教育の改革については政府として一定のスケジュールに乗っており,次は,大学の問題である。2000年の初頭においてきちっとした方向付けをし,今日までやってきた施策の中で更なる取組が必要なものについてはしっかり取り組んでいく覚悟で,みなさんに御議論をお願いしている。
○[1-14] 高等教育と学術研究を一緒に考えることは,これまでにないほど必要性が高くなっていると思う。それは,国力に密着しているからである。中国や韓国,米国等においても,高等教育と学術研究については,現在の経済状況に密接に関わるという観点で様々な政策が行われており,日本だけがそういう観点を持たずに政策を推進すべきとは考えられない。国力の観点から言えば,陽の当たらない学問はどうなるかといった危惧がすぐ示されるが,それらをどう継承発展させていくかは,日本の子孫の国力の源泉となるものである。また,教養の位置づけをどう行っていくかが重要である。教養とは危機管理能力を身に付けることだとある人が言っていたが,教養の中身が単に知識の蓄積であっては世界観や倫理観の醸成,組織の危機管理などにはつながらない。各界のリーダーに問われるような教養を,どうつくりあげていくかが課題ではないか。
○[1-21]「大学の裾野が広がり,その中で様々な問題が起こり,多様化を中心とする大学改革を行ってきていることは,我々が共通に認識するところであろう。ただ,それだけでは何か不足しているのではないか。現実に起こっている問題を実質的に受け止めた上で改革を進めているかどうかについては自信がない。何かしようとすると自縄自縛になっているのではないかという問題がある。知的なるものの状況が変化する中で,大学の位置付けという基本的な定義ができてないのではないか。知の責任が問われる中,その責任に関心を持たない非知的な状況があるのではないか。大学には協会があるが,それは一種の代表制であり,学会も同様である。したがって,個人や大学がどう責任をもつのか意識しないで生きていける状況ができあがっている。誰が何に責任を持つのかをはっきりさせなければ何もできない。教養のない者,客観的自己規定ができない者に教育はできないのではないか。日本の学者は細分化の中に閉じこもっていて,その中でしか責任をとらない。自己規定をする学者は細分化に異議を申し立てるべきだが,反対に荷担している状況にある。
15日10時に総会傍聴・要望書の処理過程の開示を直接事務局に申し入れた。それを退ける会長の判断を伝えに来た国立大学協会事務局長と11時まで交渉し、強い要望があったことを伝える約束を頂く。翌日、事務局長に会い経緯を問うたところ「総会で会長は、今回に限ったこととして、傍聴拒否・要望書の非回付の判断の事後承諾を求めた。異論はなく承認された。正確な内容は議事録を参照してほしい」とのことであった。今回よりも時間を掛けた手続きを踏めば、総会の傍聴・要望書の処理過程の開示等は、可能性があると感じられた。独立行政法人化にブレーキを掛ける立場からすると小さな収穫だが一般教職員の声が総会に届いた点で意義のあった要請行動であったと思われる。多くの方々の意思表明と支援に感謝したい。
...
「しかし、これだけにはとどまらない。大学の研究や教育、運営において必要不可欠な要素が破壊されるであろう。大学の活動は、大学内における各構成員の協力、協働によって成り立っており、異なる分野間の共同も必要である。また、大学間の共同も必須である。このような共同的在り方が、競争的関係の中で破壊され、解体し、それぞれが競争に投げ込まれ、選別、切り捨てが起こるとしたら、それは大学にとっては致命的なことである。これらを通して、大学システムの解体が進む。大学にとって、もっとも基礎をなす個人の知的な、内発的活動に対して抑制的雰囲気が形成される。個人の発意を基にする基礎的研究や自由な教育が失われ、大学内の自由の空気が失われる。選別・淘汰を目的とする「競争的環境」には、自由が存在する余地はない。
大学のシステムとしての危機は、直接的に大学と大学教職員の危機を招くばかりか、未来の社会の危機を招来する。誰しもが感じているように、現在は、極めて深い社会の奥底における転換の時代である。わたしたちは、現在の社会システムがいつまで続くのであろうか、このままの延長上に次世代の社会はあるのだろうかという懐疑にまといつかれて生きている。未来の世代がこの高度に文明化された社会を維持し、発展させるためには、何よりも、その知的・文化的素養の高みを常に作り出していかねばならない。このためには、大学は極めて枢要な位置を占める。これを、「金融機関の競争と自己責任の時代が始まった。大学行政にも同じような改革手法が求められている」(「朝日新聞」10月24日社説)というような粗野なやり方で扱ってはならない。
...
同機構がこうも急いでいるのは平成12年度中には実施しなければならないというタイムスケジュールの故であろう。ということは、大学評価機構の内部では、評価の方針、内容、方法も殆ど出来上がっていて、後は広く意見を聞いたという形をとりたいだけなのではないかという推測もしたくなる。これだけ詳しい原案ができあがっていれば、意見をはさむのも難しいし、異論が採用される可能性も乏しいだろう。なにしろ当の国立大学関係者でも、大学評価機構とは何ものであって、評価の実施案がどんなものかも知られているかどうか疑わしい。筆者の知るかぎりでは、国立大学関係者は独法化の方に気をとられていて、そのペアとなる評価の方までは、まだ気がまわっていないように見受けられる。いまのままでは、大学評価の方針は、ごく一握りの関係者によって決定されていく公算が大である。
...政府のやることはいつでもこんなふうに裏木戸から何気なく入ってきて、気がつくと思うつぼにはまっているということが少なくない。
そこでここでは、実施案の具体例や細部に対する疑問や見解はひとまずおいて、同機構の第三者評価の基本的性格にかかわる点のみについて、同機構の回答を求めたい。
(1)同機構の大学評価は公私立大学は対象としないのか、あるいは「当分の間」だけ対象としないのか、そうだとすればその期間とはどのくらいの時間なのか、是非とも曖昧にしないでお教えいただきたい、というのが第一の問いである。...
(2)同機構の収集整理した評価情報は、当該大学のみならず、ひろく社会に公表するとの方針が表明されている。情報公開自体は望ましいことであるが、公表の仕方次第によっては、いくつかの問題が引き起こされる可能性がある。たとえば評価情報を利用して、さまざまな評価機関やメデイアが大学の質を序列化し、大学がランキング競争に巻き込まれる可能性である。すでにイギリスではジャーナリズムが高等教育評価機構(HEFC)のデータをつかった大学ランキングを毎年公表している。つまり公的機関が収集した評価情報が、大学の教育研究水準の向上や改善に資するという本来の目的から逸脱して、大学の序列化に利用されるおそれがある。序列化がすべて悪いとはいえないかもしれないが、大学の組織全体や教育研究の質を序列化することが、教育研究の質的評価としては適当な尺度といえないことは、過去に偏差値ランキングがもたらした幾多の弊害が証明している。機構の評価情報がこうした方向に利用される可能性に対して、機構としてはどのように考え、またこれに対していかなる対応策を講じているのか。
(3)今回の「実施方針」のなかの評価の目的のなかには、評価結果を大学の改善に役立てることと公共的な機関としての大学に対する「国民の理解と支持を得られるよう支援・促進していくこと」が挙げられている。ここにはその評価結果を資源配分に活用するといった、2月の評価委員会報告にあった文言は抜け落ちている。機構はただ評価情報を提供するだけで、政府がこれをどう使うのかには関知しないのだろうか。あるいは、評価情報が政府の予算配分や優先順位の決定につかわれる可能性はないと考えているのだろうか。もしそうだとしたら、第三者評価はなんのために行われるのだろうか。機構の行う評価が、私学助成等になんらの影響を及ぼすことはないのだろうか。その点機構としてどう考えているのかを明らかにして欲しいのである。
少なくとも以上の3点が曖昧にされたままでは、私学としての機構への回答のしようがなく、また私学としての評価システムの在り方も考えようがないのである。」
(7)独立行政法人というスキームを使うと法人が大学の設置者だということには必ずしもならない。独立行政法人のスキームを使ったとしても,設置者が国なのか法人なのかということは,別途法律をつくらなければならないことだ。
(9)(重要)合議制の機関である大学が独立行政法人の仕組みとどう噛み合うかが問題である。国が設置者という原則が貫かれるならば,現行の国立大学設置法がもっている大学にとっての強みをそのまま継承できると思っている。もし国が設置者でなく法人が設置者だとすると,新たにに国立大学法人法なり特例法を作らなければならない。そのときに,独立行政法人のスキームと大学の合議制とがマッチできるものか。独立行政法人の場合には,明らかに機関の長がトップダウンで運営していくという発想でできているから,合議制の原則をその法律の中に入れていくのは大変なことであろう。
(10)国が設置者であって,国が管理し経費も負担していたのを,管理だけ法人で,経費負担は国の責任というのは,学校教育法第5条(学校の設置者は,その設置する学校を管理し,経費を負担する)の超例外になり,それは虫がよすぎる話として世間の納得が得られるものか。そこは,第5条はそのまま受けておけばよいと思う。国の管理ということについては長年,文部省との間に慣行があり,それが尊重されればよいのであって,敢えて管理は我々の方が取るのだと頑張る必要はないのではないのか。(何を考えておられるのだろうか!?)
(11)そう思う。従来,国が設置者であり,国が国立大学を管理していたが,その管理の内容については,当然大学の自治による制約が及ぶわけで,そういう形で国と国立大学の関係が保たれてきた。そこを,この際,国からの大学の自治を拡充するのだということであれば別だが,従来の線を維持するのだというのであれば,用語はそのままとし,国の管理の中身に自ずから制限があるということにしておきたい。大学の自治自身は,国家に対する自治であるから,私学にあっては,教学が経営に従属するのはどうかという問題は憲法問題ではないが、国立大学と国との間では憲法問題になる。ただ,最高裁判決では,憲法の枠内で大学の自治を認めており,それほど心配はしていない。(憲法第23条は国立大学だけ学問の自由を保障するということを言っておられるのだろうか?!それにしても司法の現実を無視した余りにも楽天的見解。)
(17)(重要)独法化によって,中の組織を自由に変えられることを文部省はメリットと言っていて,それに期待をかける向きも少なくないが,仮に,定員管理の縛りがなくなったとしても,予算面からの絞めつけができたときに,どういう状況になるかということを十分想定しておかなければならない。何か定員制とか講座制ということが桎梏のようにとられているようだが,それは大学を縛っているというよりも国に対する義務づけになっているということを考えたい。それがなくなるということは,予算の配分が減り,人も減るということがあり得るというのが論理的な帰結である。だから,独立行政法人化の問題は,そういう問題とリンクさせながら考えないといけない。
(23)(!?:戦略的に問題)基本的にはディフェンシブの姿勢でよいと思う。どういう大学が望ましいかというイメージがはっきりあって初めて,そのスキームでいいか悪いか分かるわけだから,いろいろシミュレーションは必要だが,それは表てに向けて言う必要はないのではないか。必要なのは,言われている種々の独立行政法人のメリットが本当に言われている通り期待できるのかどうか見極めることだと思う。
(24)(!?)国大協を取り巻く状況は,かつて国鉄の民営化が問題になった時と似ていると思う。今のままでいようとすれば,外の強い力が働いてくることは必定だ。そういう中で,各大学が自主的な努力で改善できる余地,改善されるならそこに予算がつくという余地,それに対して国が支援するという方式,そういうシステムによってダイナミズムを大学が持つ方向に向かわないといけない。国立大学が法人格を有していないがゆえに,意思決定に大きな制約があって,たとえば,裁判において当事者になり得ないということとか,大学自治についても,教官人事,学問・研究等学部自治の根幹を支える予算,会計,組織などの面で自由度がなく,大学として責任をもった管理運営をしていく仕組みになっていないということがある。そこを,自分たちの努力・工夫で大学をよくしていけるような制度として,法人格をもつことを考えたい。
第二の危険は、教育が非商業的な世界から商業の世界へと移行することだ。
第三の危険は、各国が世界的な競争にさらされるなか、教育が個々人の生き残りを左右する手段のように言われることだ。教育現場は、生きるための素養(公共の利益を尊重しながら他人とともに生きること)を身につけるというよりも、戦うための素養(自己中心的に、他人の鼻を明かして成功すること)を習得する「場」に変質しようとしている。
第四は、技術への教育の従属である。
第五は、教育システムが、新たな形の社会的分断を正当化する手段として使われることである。
「○印は委員及び関係者の発言、◇は事務局の発言
◇...評価の内容については、まさに本委員会における検討課題であるが、
その直接の対象を個々の研究者にすることは、実質的に不可能であり、また、
国費である運営費交付金は、個々の研究者ではなく槙Y法人である大学に交付
されるものであることからも、目標、計画、評価については、基本的には、大
学全体が対象になると考えられる。
90年代教育改革がこの種の難問を克服する手だてとして考えたのが、教育行政に対する様々な規制を取り払い、学校の校長や大学の学長に権限を集権化することによって、校長、学長主導で、学校、大学の個性化、差別化を行わせようという構想であった。
「私は、今回の改革の全体に「総合設計」の視点が全くないことを繰り返し批判してきた。法科大学院構想はまさにその典型例である。法曹養成を重点とする方向にシフトすることは、法学部の在り方を根本的に変えなければできることではない。現在の法学部教育の体系とそれなりに対応していた教員組織もそのままではありえないし、何よりも法学研究者の後継者づくりの在り方は大きく変更を余儀なくされるだろう。これを回避するためには、大学の側でこれまでの法学部の担ってきた役割や法学系大学院が果たしてきた役割をいかに評価し継承すべきものをいかに継承していくかの検討を早急に開始する以外にない。 」
「シンポの中で、埼玉大学中村氏は、文部科学省の組織について「組織規則」という書類をもとに解説しました。当日は簡単な話でしたが、この文部科学省の組織に設けられる「xxx官」の種類や権限を読むと、空恐ろしくなります。
「...
研究支援機能について、今まで述べてきたことは、資料・情報の探索に関す
ることである。探索の結果として判明した資料・情報のデリバリー機能がしっ
かりしていなければ、研究者・教官は「隔靴掻痒」の状況に追い込まれること
になる。「サービスを展開する・実施する」とは、利用者の求めている資料・
情報そのものを提供して始めて完結するということを忘れてはならない。デリ
バリー機能は、各大学図書館が、完全な意味での自己充足的環境を作り得ない
ことが明確になっている現代においては、必須のものとなっている。この時の
大学図書館は、より仲介機関としての能力を果たすことである。相互協力体制
をこれまで以上に強力に推進することが求められている。けれども、今、論議
が進んでいる国立大学の「独立行政法人化」は、この体制を崩壊させる契機に
なる可能性が在ると見ても良いだろう。個別に独立した法人は、その範囲での
効率化を競うこととなるので、よその法人のやむにやまれぬ要求への理解度は
低下してゆく。むしろ、よその機関の要求を実現させないことが自らの地位を
優位にすることになるので、「相互協力」といった局面は成立しなくなると考
えてもよい。かつて「地域的に成立していた同種の分野・テーマをもった専門
図書館の協力組織」が、図書館員たちの努力にもかかわらずあえなく崩壊して
しまう事例を私たちは歴史の中で知っている。国立大学、大学全般に、そのよ
うな雰囲気が生まれてしまうことを危惧するもので、それを避ける提案を早急
にとりまとめる必要があるだろう。
...」
佐賀大学 豊島耕一
条文の順番によれば,まず「臨時措置法」は大学に文部大臣への報告義務を決め
ている.
これに対応するものは通則法33条に見られる.紛争などの限定はない.常時,万事
についてである.因みに現行の国立学校設置法,学校教育法に「報告」の文字は見
当たらない.
次に,文部大臣から大学への発言権を見てみよう.
通則法では,次のように事実上広範な事項について指示する権限を文部大臣に与え
ている.
業務停止,廃校について「臨時措置法」は次のように文部大臣の権限を規定して
いる.
第9条 第7条第2項の措置がとられた後3月以上の期間を経過してもなお大学紛
争の収拾が著しく困難であり,当該大学又はその学部等の設置の目的を達成するこ
とができないと認められるに至つたときは,その事態に応じ,国立学校設置法(昭
和24年法律第150号)を改正するための措置その他必要な措置が講ぜられなければな
らない.
通則法も同様に「所要の措置」として文部大臣に廃止の権限を与えている.
「独立」行政法人ではこれ以外にもさまざまな規制,義務,制約が行政当局から
加えられるのである.「スーパー大管法」ないし超大管法と名付ける所以である.
このような「歴史の繰り返し」--しかしより重篤な--であれば,当時の闘いから
学ぶことも有用であろう.こんにち大学組織の中核に位置しているベビー・ブー
マー,団塊の世代たちが当時は学生の立場から問題提起をしていたはずである.そ
の時の問いかけは時間軸を通じていま自分たち自身にブーメランのように戻って来
ている.これに耳を傾けてみてはどうだろうか.(注2)
一方,「臨時措置法」の文部省の原案「管理運営の正常化法案」には,「学生参加」
の項目があった事は注目に値する.今日盛んなアンケートという江戸時代の「目安
箱」を連想させるようなやり方ではなく,正式の合議体に代表参加を認める考えを
打ち出しているのである.しかしこのような当然と思われる提案は現在,文部省は
もとより,組合など批判勢力の側からもほとんど聞かれない.
国立大学が法人格を持つことが,現行国立学校設置法の「調整」では不可能だと
いうことは未だに論証されていない.かつて「自主改革すれば独法化の対 象からは
ずすが,改革がなければ独法化することを法律で規定し」たなどとデマを振りまい
て「大学審答申」の実施の宣伝役を務めた内田博文氏(注3)だが,彼が今度は「挙
証責任」がどうのこうのと言っているのを見ると(注4),実はこれは不可能ではな
いのではないかと思いたくなる.本当はどうなのだろうか.ドイツなどでは国立(州
立)大学のままで法人格を持っているのである.なぜ日本ではダメなのだろうか?
(注1)http://www.houko.com/00/01/S44/070.HTM
前日本学術会議第5部長の内田盛也氏は「日本では化学全体が非主流だから、ノーベル賞くらいの業績がある白川さんが退官しても国内からは何も声がかからない。はっきり言えば失業者ですよ」と述べています。さらに、「白川教授は一番権威のある学会日本化学会賞ももらっていません。賞の対象にもなっていないのです。日本では高分子は面白いがみんな亜流だと思っていたわけです。それが日本全体の人間評価なんです。日本全体の人間評価が狂っているんです。大学の教授は勲章が欲しくてしようがないのです。だから学会とかで会議の議長はやるけれど、ほとんど仕事はしない。仕事をしている人は無名になる。けれど海外では評価する。そういう意味では白川教授の受賞は日本に対する警告と受け止めて欲しいのです」と言います。
大学審議会が求めた<個性が輝く競争的環境>とは、このようなお粗末な評価による<競争>だったのだろうか。米国の大学の<個性が輝く競争的環境>が機能しているとすれば、まともで真剣な相互評価活動があるからではないのか。
問題の一つは、大学評価機構自身のアカウンタビリティが欠如していることだ。この提案の検討の経緯、誰がいつどのように提案し修正していったか、そういったことが克明に公表されるのでなければ、この提案に何の資格もない。単に文部省が知りたい項目が列挙してあるに過ぎないと言われても反論できないであろう。まず機構自身が社会的アカウンタビリティを行為で示すことから始めないことには話しにならないのではないか。
「項目別評価結果の記述をわかりやすくする」ために、全項目について4段階評価の導入を提案している。これは
3月21日の参議院文教・科学委員会での審議で文部大臣が「このため、評価結果は、各大学がそれぞれ設定した目的、目標に沿った教
育研究活動の状況、つまり学校によって学校の方針もある、大学によって方針もあるわけでございますから、全国一律の機械的な評価をするということではなくて、そういう各大学の状況や、またすぐれた取り組みとか、あるいは改善を要する点を点数化ではなくて記述によって明らかにすることを考えておりまして、御指摘のような点数化の評定を行うことは考えておりません。」と断言していたことに露骨に反する。設立後半年も経たない時期に国会審議の内容を無視したことを行なうことが許されるのか。国立大学協会は10月時実現するという
末までにこの案について意見を求められている。第八常置委員会はどういう議論をしたのか公開すべきであろう。
機構が10月末までに意見を求めている「関係者」は、国立大学協会と同格に、次のようになっている。
このような評価方式を平然と出す評価機構が大学等を席捲するようになれば、独立行政法人化しようがしまいが関係なく独立行政法人化と同等のダメージを大学は受けることになる。
大学評価機構の設立には国立大学協会は極めて重大な積極的な役割を果たしたことが、国立大学協会大学評価に関する特別委員会ワーキング・グループによる「大学評価に関する特別委員会ワーキング・グループ最終報告」を見るとわかる。<創設準備委員会>には国立大学協会のWGが<積極的に参加>しアイディアを出し、事務員定員を出し大学評価機構を作った。しかし出来た途端に国立大学協会とは関係なく一人歩きを始めている。独立行政法人化調査検討会議に積極的に参加し文部省に協力し始めている推移はそれと酷似してないか。
「欧州では、国を超えた学生・教員の交流や大学間協力が進んでいる。
「さらに、問題なのは、運営費交付金と大学の独自財源との関係である。独立行政法人の会計制度によると、大学個が外部資金や授業科・附属病院収入等を増大して独自財源を拡充した場合、それに応じて運営費交付金は滅額する関係にある。これはあたかも、地方自治体における「地方税=独自財源」と「交付税=依存財源」との関係と酷似している。そこでは、大学間で競争的資金を奪い合う競争が進行すればするほど、国庫から交付される交付金は少なくてすむことになって、独法化手法による行政改革の目的である行政コストの削減が実現されることになるだろう。
「愛媛大学の98年度の歳出総額は、(..医学部付属病院を除外して考えてみると..)歳出206億8000万円に対し、歳入57億600万円で自己財源率は27.6%にすぎなくなる。..自己財源の内訳を見てみると、授業科・検定科が47憶6400万円、雑収入9億1500万円であり、財産収入はゼロである。..
独立法人化された場合、政府は独立採算制ではなく連営費交付金で措置されると言っているが、運営の効率化と自己財源の調達努力を求められることは火を見るより明らかだと言ってよい。そこで最悪のケース、公費負担が無くなった場合を想定してみると次のようになる(病院を除外して計算)。歳出206億8000万円を自己財源で賄おうとすると、何らかの方法で158億2500万円の増収をはからなければならない。これを授業科のみで行おうとすると、大学院を含む在籍者数9828人で計算して一人当り約161万円の投業料値上げが必要となる。外部資金の獲得に努めて、雑収入を30億円まで増やしたとしても、授業科は約140万円の引き上げが必要である。このような授業科の徴収は不可能であり、公費負担無しで行おうとすると教職員の大幅削滅が必要となろう。
もう少し現実的に、公費負担が歳出の二分の一まで引き下げられたとしよう...。この場合には103億4000万円を自己調達する必要があり、外部研究費を15億円集めたとしても、授業科は89.9万円(計算上入学金は無視する)となり現在の約二倍に引き上げることが必要となる。また、この場合には学部格差授業科を設けることが避けがたくなるが、格差の設定の仕方によっては医学部の授業科は現在の五倍にする必要がある。
今日の財政状況と政府の政策動向からする時、独立法人化されれば、従来同様の財源が保障されるとは考えられず、授業科の引き上げ、外部資金の獲得、経常的経費の削減などが強く求められることになるであろう。しかし、景気の長期停滞の中、外部資金は、特に地方国立大学では大幅な増収を期待することはできない。大学財政の構造は人件費の比重が高く、財政の効率化を備品や消耗品の節約で達成することは困難である。行きつくところは、授業料の引き上げと教職員の人員削減という最悪の方向である。」
「独立行政法人化についての大きな危惧の一つに、独立行政法人化の「独立」とは名ばかりで実際は研究の国家管理やトップダウンが強まり、学問の自由や社会的に必要な研究が損なわれるのではないかということが、従来より言われてきています(今まで独立性の強かった大学では、一層強く危惧されていると思います)。実際の独立行政法人化準備の経過を見ますと、従来から上意下達性の強かった国立試験研究機関でさえ、その様な危惧は非常に大きくなりつつ有ります。」
(1)司法試験は問題の様式や受験資格などは、基本的に現行通りとし、合格者数のみ2千人から3千人程度にまで増加させる。
(2)司法試験合格者には、大学院の修士過程に入学を義務づけて、1年ないし2年の履修によって、修士号を得なければならないものとする。この場合の大学院での履修は、法律学を主たる対象のものとするが、別な分野の科目の履修も可能なものとする。大学院は、法学研究科以外でも法学教育が行われている所は履修可能とし、修士論文の指導が適正に行われているか第三者機関により評価する。
(3)修士号取得後、1年間の実務研修を司法研修所において受けることを、義務づける。
「今、われわれ(日弁連)のとるべき態度は、大学審路線に便乗して大学自治の犠牲のもとに法科大学院を設置することではなく、現行司法研修所の徹底的改革を要求することである。この課題がどれほどの困難を抱えているとしても、司法研修所の改革すら実現出来ない弁護士会であれば、文部省官僚を相手に回して法科大学院を改善していくことなどおよそ不可能であろう。司法研修所改革の具体的方向性については、前記「青法協意見書」を参照されたい。
京:競争の中で淘汰をすすめると自民党などは言っているが、これについてはどう思うのか。われわれとしては、市場原理の導入や効率化によって創造的な学問
研究ができるというビジョンに懐疑的である。
(○委員 ◇事務局)
==>黒川提案の誤解と意義
1-1. 国立大独法化案出現の経緯 2-2. 教育研究機関たる大学に及ぼす影響 2-3. 独立行政法人化が教育・研究に与える影響 3. 独立行政法人化のねらい
..
国会質疑 大学の独立行政法人化について(平成12年8月参議院文教・科学委員会)
文部大臣 お話のあった「論座」はまだ読んでいない。局長がお書きになったということもあるが、すぐ読んで勉強したい。 より
「...
序文(p3)「大学は高等教育機関である。学の蘊奥を究め、深い教養のある社会人、研究者を育てるところである。なにをいまさらそんなことと思われるかもしれないが、その主人公である学生は学問に関心がなく、教育されることを嫌がっている。一方の当事者である大学教員も教育にそれほど関心を示さない。学生を雇用する企業の経営者も学費を負担する親も、大学の教育に期待していない。おかしなことに、目本の大学は、だれも教育を真剣に考えていないのだ。それでも高等教育機関として成立しているのだから、じつに不思議である。 関係者は手をこまねいているわけではなくさまざまな改革を試みているが、さっぱり実効があがらない。大学改革はつねに政界、経済界、文部省などの外圧を受けて行われてきた。内部から行われたことはない。学生が「大学解体」を叫んでキャンパスをバリケード封鎖した、あの大学紛争のときも何も変わらなかった。その後も改革のチャンスは何度もあったが、本質的な部分では何も変わらず、今日に至っている。いま行われようとしているさまざまな改革もそうした外圧によって行われようとしている。だが、外圧の改革でよくなったためしはない。教育制度はいじればいじるほど悪くなる。国全体のビジョンも不透明ななかで、現場の教育者が明快な青写真を描けないのは致し方ないという意見があるが、それならそれで杜会システムの変化も含めた大学のあり方を考えるのが教育者、研究者の役割ではないか。
大学がこんなおかしなことになったのは、大学の教員や学生だけの責任ではない。肝心の教育の中身は問わず、たんなる労働者の選別機関としてしか大学を見てこなかった企業の側にも責任がある。ここまで放置した政治家や官僚にも、あるいは「愚者の楽園」であることを容認してきたマスコミ、親の側にも責任がある。日本国民全員がよってたかって大学を駄目にしてきたのだ。大学に何を期待するのか、自分たちの息子娘たちがどんな教育を受けてほしいと思っているのか、また当の学生たちは大学で何を学びどう生きようとしているのか。大学を取り巻く環境、社会システム、国民の意識が変わらないかぎり、大学にだけ自己改革を迫ってもよくなりっこない。 大学問題は、大学関係者だけの問題ではない。日本国民一人一人の問題である。どうすれぱいいのか、またどうすべきなのか、よく考えていただきたい。この本は、そのための材料として読んでいただければ幸いである。」
いま進められている大学改革は、沈み行くタイタニック号の上でデッキチェアを整理しているようなものだといわれる。細かいところばかり直して根本的な改革には手をつけようとしない大学は、いずれ沈没する運命にある。独立行政法人化もしょせんは教育理念などもちあわせない政府の姑息な延命処置にすぎない。国家公務員の削減という行政改革を進めることはできても、これで大学が再生すると思っているおめでたい大学関係者は一人もいないだろう。
もう欧米先進国に追い付き追い越せの時代は終わった。明治から始まった欧米先進国の知識を日本に持ち込み、集中的に効率よく教えるという大学の役割はとっくに失われている。日本の大学はもはや改革不能である。改革にやる気を見せることが全国の大学に熱病のように広がっているが、下手な「改革ダンス」は踊らない方がいい。中途半端な改革がかえって事態を悪化させることは、すでに大学院重点化で実証済みだ。何もせずに放っておけば、いずれ次々に自滅するだろう。それでいいではないか。くさった大学はもういらない。」
「..いま、社会が教育に求めているものは、多様な価値観にもとづく、多様な才能の育成である。こうなると、官庁主導の統制教育はまったく無用のものになる。そもそも、教育とは役人の専任分野ではなく、社会の責任世代全搬がになうべきものである。
(1)文部省の解体、(2)教育委員会の解体、(3)PTAの解体。
文部省の解体は、教育政策の権力集中をなくすために不可避である。しがしながら、教育界が無秩序になることを避けるために、最小限の国家的チェック機能は必要だろう。その機能を果たすのは、何らがの方法で選出された民間人の審議会とその事務を担当する小規模なスタッフでよい。あるいは、現状の役割が疑問視されている参議院を、医療議員団、科学議員団、文化議員団などと専門分野に細分化し、その一つとして教育議員団を作り、この集団が任に当たることも可能だ。この機関の方針決走や監視の基準となるのは、現行憲法がめざす民主主義の理念でなければならない。
(1)不況期には躊躇せずに国債を発行し、公共事業を増やして、金の無駄遣いではなく、労働資源の無駄遣いを最小限に抑える。
アメリカの人文科学はそれぞれの領域はまだあるがほぼ潰れていて、ヨーロッパの方が優れている領域が多い。おそらく今後はじり貧状態になり、人文科学は要らないといい出すであろう。しかし、日
本は人文科学を振興しなくてはならない。また後継者がいなければできないことだから、後継者をど
のように育てるのかが問題であろう。それとほぼ同じ状態が理学部系の領域についてもいえる。アメ
リカが1993年に議会によってプロジェクトを潰されて以来、巨大科学としての物理を放棄してい
る今こそ日本は巨大科学を推進すべきだと思う。
...
□ 自分よりも優れた研究者を育て上げることに対する喜びをどれほど日本社会が共有してくれるかということだと思う。自分を脅かすような研究者が出てくることが教育の成功であるということが、理系、文系ともに必ずしも十分共有されていないので、まずそこから始めていくことが必要ではないかと思う。自分が超えられた場合に、アカデミックマネジメントに携われるようなポスト等に転身できる仕組みを大学の中に作り、それを許容する雰囲気が必要ではないか。
○ 社会科学の研究には時間が非常に重要である。優れた研究者の研究時間を確保して、その時間を有効に活用してもらう仕組みを意図的にデザインすることが、大物の社会科学者を育てるためには不可欠であると考える。(「時間が非常に重要」ではない研究分野などあるのだろうか?(admin))
△ トップダウンだけではなく、研究者がゆっくりと暖めていく学問の重要性は行政側も認識している。省庁再編に当たっても、我々はそのように主張していきたいと考える。
○ コストをかければトップクラスのものが出てくるが、問題はいかに世間を引きつけられるように世の中に訴えていくかということだと思う。無駄はコストとして必要だと直説法で訴えてもなかなか上手くいかないので、工夫してアピールする必要がある。
○ 大学の施設整備については、いろいろな会議でいつも財政事情が厳しいといわれているが、大学で働いている者や研究者はそれでは納得できない。どうして当たり前のことができないのかということを、次期科学技術基本計画を策定するこのときにはっきりしていただきたい。
△ 大学の施設整備の問題は、現行の科学技術基本計画の中でも達成状況がはかばかしくないものとして、大変重く受け止めている。昨年日本学術会議から勧告をいただいていることもあり、次期科学技術基本計画の中の重要課題として省内で検討している。大学の施設は、国立、公立、私立それぞれに厳しい状況にあるが、国立大学の施設について申し上げると、国立学校特別会計という制度の中にあるが、国立学校特別会計は大部分を国の一般会計からの繰入、学生納付金、病院収入に依存しており、財源の問題からいうと国立学校特別会計を大きく伸び育てることが難しい中で、どういうふうに財源を捻出するかということで、施設整備に大きな負担がかかっていた。本日午前中に開催された別の会議でも、施設の整備に向けて、全分野を横断的に考える中で特別枠等の優先的な財源の手当を考えるべきではないかという意見があった。これからの概算要求の中で一足飛びに改善ができるとは考えていないが、この問題に取り組んでいくとともに、委員の皆様にも御指導、御鞭撻を賜りたい。
○ 法律や制度は日本のためのものであり、それが日本にとって悪いものなら変えればいいことである。そのように、いろいろなところから声をあげていかなくてはならないと思う。
○ 国立大学が、独立行政法人化した場合、国立学校特別会計はどうなるのか。
△ 現在、国立学校特別会計がどうなるのかは明らかではないが、文部大臣が昨年9月の国立大学長会議で見解を述べており、国立学校特別会計制度が現在持っている利点については維持していく、という大きな方向は示されている。国立学校特別会計自体大変厳しい財政問題を抱えているが、その利点を維持する中で特別会計の制度が持っている様々な平衡化を図る機能を維持していくことが大きな課題となっている。
○ そうすると、特別会計制度があることによって、最低限は入って来るという利点と、これ以上増やせないという欠点とを秤にかけたときに、最低限は入って来るという利点の方が大きいという判断なのか。
△ 一言で申し上げることは大変難しい。国立大学といっても様々なタイプの大学があるので、一律に考えていくのではなくて、いくつかの考え方の要素があろうかと思う。これから考えていくべき大きな御指摘だと思う。
○ 国立学校特別会計というのは、個々の大学へ予算を付けるよりは、全体として予算を付けて、それぞれの大学の需要に弾力的に応えるというような狙いでできたシステムで、かなり有効に機能していたと思う。かつては、特別会計への一般会計からの繰り入れは8割だった。現在は、財政が厳しくなってきたから6割を切っている。予算編成のプロセスでは、最初の財源の割り振りの際に特別会計にまわす額が、中身を精査する前に決まってしまう。また、毎年の一般会計からの繰入額は大きく変更できないため、施設費はなかなか増えない。しかも、予算の大部分を占めるとなると伸ばしにくくなる。これを何とかしてくれというのが、次期科学技術基本計画なので、その知恵をどうやって出していくかということを重く受け止めてやっていただきたい。その際に、構造的に学術国際局がその責任を全て負うのではなくて、官房や文教施設部に当事者意識を持たせるようにしないと、しっかりとした解答が出ないのではないか。
○ これは文部省の中で、総合的に政策として考えていくことはできないのか。例えば、国立大学の大学院整備が認められて、どんどん大学院が増えているが、建物は55%しか建っていない。およそ半分の大学は、大学院ができたが研究室が無いという状況になっている。これは非常に不合理だと思うので、例えば少なくとも3年以内に建物を建てるという制約がないと大学院の設置を認めないとか総合的に考えていかないといけない。各部局でバラバラに予算要求をしていてもいつまでも施設は建てられない。
△ 大学院の重点化は、平成3年の大学審議会の答申を踏まえて定員の倍増を進めてきた。また一方で、ビッグプロジェクトは予算的に施設整備費の中でやってきた。事務的には、学術国際局、高等教育局、文教施設部での突き合わせを行い、政策的な方向付けをし、例えば文教施設部では総合研究棟を作って、特色を出していこうとしている。そういった議論と、科学技術会議での議論を単に学術国際局だけの議論とするのではなくて、今後他局ともすり合わせてやっていきたい。」
「○一番最後の自己点検・自己評価の件ですが、これは大学でもこのことが大変大きな問題になっておりました。平成3年に自己点検・評価をやるべきだという大学審議会の答申が出ました。1つは、国民に対するアカウンタビリティというようなことから出て来たのですが、私、これを最初に見たときに、おやっと思いました。
(NAEPについて)「調査規模については、これは個人、サンプリングのやり方で数え方が変わりますが、個人調査という形で数えれば、規模としては約7、000人規模ということになります。これは、該当学年人口の約0.2%を対象としている試験ということになります。
「○ 質問ですが、高校の出口試験の結果と卒業の認定の関係はどのようになっているのでしょうか。我が国では、高校の卒業認定は、学習指導要領で、学校長に裁量権があるのですが、アメリカではどのようになっているのでしょうか。
1.国立大学の独立行政法人化については、地方の国立大学の実情を充分に配慮すること。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
文部省はこれらの問題に加えて少子化による教員需要の低下問題を含め、長期的観点に立った教員養成系学部の果す役割やその組織・体制のあり方について指針を得るべく、2000年8月に「国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会」を発足させ、来春ないしは来夏には基本的な考えをまとめるという。一方、日本教育大学協会独立行政法人化問題検討特別委員会も、「21世紀の教育系大学・学部の在り方」としてまとめ、改革のための方針を公表しようとしている。これらの動きに呼応し、一部のマスコミを通して、一定の方向への誘導をも意図するかのような教員養成系学部の再編・統廃合報道が行われている。
このような状況下にあって、教員養成を担う学部は、当事者としての真価がいま問われている。教員養成を担う学部は、「一府県一教育学部・大学の原則」に立って、惑わず地域に耳を傾け、地域との連携の中で具体的に何をなすべきか方針を公表し、地域に問うていくことが求められており、また、それをすることが責務である。ややもすると単なる財政問題、あるいは、短絡的な対症療法的政策になりがちな教育改革を、地域の学校と大学と行政が協同して進める地域ネットワークの課題として位置づけ、そして、教育に関連する職業人の生涯学習機関、つまりは開かれた大学として提起していくことが、地域における教員養成系学部の使命である。
福井大学教育地域科学部は、地域に根ざした教師教育のあり方をここに明らかにし、改革の一層の努力を決意するとともに、多くの教員養成系学部・大学に訴えるものである。
とりわけ、現在の教育が直面している問題を打開し、ゆたかで質の高い学び合 う共同体としての学校を実現していくことが強く求められている。この教育改革 の実現のためには、学校・行政・地域・大学が手を携え、共同で探究し実践して いくことが不可欠となる。教育系学部・大学院は、地域における学校改革のため の取り組みに参画し、教師の実践的な力量形成を支え、そのネットワークの拠点 としての役割を果たしていくことが求められる。
戦後、「一府県一教育大学・学部の原則」に立って設置された教育系学部・大 学は、21世紀に向けて、地域に開かれたゆたかな生涯学習を実現し、地域の教育 改革実現のために、学校と行政・地域と連携し、さらにきめ細かな地域ネットワー クの拠点としての役割を発展させていくことが求められている。
これらの役割を果たしていくことは、地域にねざした教育改革を実現していくために、教育系学部・大学院が果たすべき責務である。
「市場原理とか効率運営などというものを持ち出すのは文部官僚ではない。教育とか研究に通じている者の発想ではないからである。政府の委員会や審議会において、最近なぜか重用されているエコノミストや経営者、あるいはその経済至上主義に染まった人々が、主張しているのだろう。だから産業界に役立つ人材を大学は養成しろ、などという冗談のような注文も出される。大学は産業界のためにあるのではない。学問を守り抜くためには産業界などむしろ眼中にあってはならないとさえ言える。そんな気概がないと産業に役立たない多くの分野は早晩切り捨てられてしまう。....
提言1:大学院重点化大学の大学院には、原則的に自校の学部出身者をいれないこと。
1 カリキュラム、教授法、教材及び人事に関する管理権の、都道府県及び地方学校行政単位への移管、 |